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卒業生インタビュー Vol.46

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今回の和光人インタビューは、鶴幼・中・高と和光学園で学ばれ、その後歯科医になられ、葛藤の中で僻地の障がい者医療に従事されている河瀬聡一朗さんにお話をうかがいました。  2019年の台風の水害被災地・宮城県丸森町でのボランティアの様子がテレビでも取り上げられ、専門誌その他で取り上げられることも多く、現在は講演の他に、男性介護者の自殺や事件が多いことを鑑み、男性に対する介護教室も開催されている方です。 インタビュアーは、地元宮城県東松島市にご自宅があり、震災当時は地元の中学校で教員をされていて『命と向きあう教室』(ポプラ社)の著者でもある和光大学副学長の制野俊弘先生にお願いしました。  (聞き手…和光大学副学長 制野俊弘先生) 聞き手: 河瀬さんが和光学園の出身だと聞いて、実は私もびっくりしたのですが、和光はいつからだったのですか? また、子ども時代はどんな感じでしたか? 河瀬: 和光学園は鶴幼からです。よみうりランドに実家があるので、鶴川からスクールバスが出ているということもあって、親が決めたと思います。少なくとも僕の意志ではないですね。 弟もいるのですが、兄弟揃って同じです。 幼稚園当時は、今写真を見ると、だいたい先生と手をつないでいるような子どもで、きっと落ち着きのない目が離せないような感じだったんだろうと思います。 聞き手: 小学校は和光ではなかったんですか?中学校でまた和光に戻ってこられたってことになるんですか? 河瀬: 当時はまだ鶴小がありませんでしたから、地域の公立小学校に通いました。外を見てみると改めて和光の良さが分かりましたね。 色々な子どもがいるじゃないですか。なかなか生活が厳しい家庭もあったり、学区域の中のことも知ることが出来たり。外に出たのも良かったんだろうと思います。 和光中高時代をふりかえる。 恩師・大澤先生との出会い 聞き手: それでは30年くらい前の話になると思うんですけれど、ちょっと当時を思い返していただいて、中高で今でも印象深いことって何かありますか? 河瀬: それなりに僕も色々なところにぶつかって今があると思っています。高校には大澤先生って、ものすごく生徒から恐れられている先生がいたんです。僕も弟もフワフワしている時期があったのですが、わざわざ自宅を訪問して喝を入れてくれたり、「おまえ、俺について来い!」と言って宮城県牡鹿

卒業生インタビューvol.45

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今回の和光人インタビューは、幼~高までの15年間を和光学園で学ばれ、その後、東洋英和女学院大学を経て、現在はトンガ王国大使館で仕事をされている竹下(旧姓:滝沢)ゆめみさんにインタビューしました。 仕事もしながらの子育てということで、2人のお嬢さんのお母さんでもあり、(次女はご主人が自宅で面倒をみていてくださるとのことで)今回は5歳のお嬢さんが同行してくれました。 どのように和光学園在学当時を振り返り、どのようなお考えをお持ちなのでしょう。そのあたりにもご注目ください。 (聞き手…2001年当時高校1-7担任/ 前和光中学・高等学校校長  松山尚寿先生) 聞き手: 久しぶりだね。お子さんも一緒に今日はわざわざ来てもらって嬉しいよ。高校当時の仲間とは、今も会ったりしている? 竹下: お久しぶりです。松山先生とは高校卒業以来ですから、15年ぶりくらいでしょうか? 7組だとアッキーとか馬ちゃん覚えてますか?何人かとはたまに会ったりしてます。叶聡平君は出勤途中に偶然何回か会ったことがあって、和光生も皆頑張ってるんだなと元気をもらったりします。そう考えると色々とつながっていますね。 和光幼稚園・小学校時代は? 聞き手: 早速だけれど、聞くところによると和光は幼稚園からだそうだね。ご両親が和光幼稚園を選ばれたのはどうしてでしょう?何か聞いていらっしゃいますか? 竹下: 実際に和光幼稚園を知ったのは、母が「おもしろい幼稚園がある!」って、どこかから聞きつけて来て、家も世田谷区だったので、そこからですね。 聞き手: 実際に和光幼稚園や小学校はどうだったの? 竹下: 今でも鮮明に憶えているのが、幼稚園では人も乗れる等身大の列車を、小さい体ながら、みんなで材料も運んで、金鎚でトンカントンカン釘を打って作ったことですね。手にマメが出来ても一生懸命に作りあげたのを今も思い出します。 小学校の、担任の先生は1・2年の担任が鎌倉先生、3・4年が國井先生、5・6年が齊藤先生でした。それぞれに強烈な思い出があるのですが、特に思い出深いのが、1・2年の鎌倉先生の時で、当時は『あのね帳』っていっていたと思いますけど、その日の出来事とか先生に伝えたいこととかを書くんですが、先生もキチンとコメントを返してくれるから嬉しくなって、ホントに毎日のように書いていたことを憶えています。 毎日書いていたのは、私ともう

卒業生インタビューvol.44

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今回の和光人インタビューは、中学・高等学校・大学と和光学園で学ばれ、苦労されながらもみずからの道を切り開いてこられたフードコンサルタントの三ツ井創太郎さんにお話をうかがいました。 (聞き手…中学2年・3年時の担任  佐藤英次先生) 最近の様子について 聞き手: 和光の広報担当者から、三ツ井くんがビジネス系の記事やネットニュースにも掲載されていて、いま結構取り上げられているっていう話がありました。このインタビュアーを受けるにあたって三ツ井くんの書籍(「飲食店経営“人の問題”を解決する33の法則(DOBOOK)」)を購入して読んだよ。内容が飲食店経営のことなので、数学教師の自分に分かるかなと思って読み始めたが、本の内容の設定が具体的で的確に書かれていて、図や表などを駆使して納得できる分析が書かれていた。数学の証明と似ていると思った。よく練られているよね、まったく感心したよ。後半は夢中で読んでしまったよ。 三ツ井: わざわざ本を買ってくださったんですね。ありがとうございます。 聞き手: 私の知っている三ツ井くんの仕事はコックさん時代で止まっているのだけれど、またどうして飲食店のコンサルタントになったの? 三ツ井: うちの家はもともと父がアパレル関係の会社を経営していたのですが、私が学生時代にバブル崩壊で倒産してしまった父をずっと横で見ていたので、当時から「いつか経営者の方を助ける仕事をしたい」と思っていました。和光大学卒業後に一旦は飲食関係の会社に就職したのですが、コンサルタントになる夢を諦められず30歳でコンサル会社に中途で就職したのがコンサルタントになったきっかけです。 ただ、いざコンサルタントになってみたら、本当に大変でした。上場会社だったのでライバル社員が1,000人くらい居て、入社して2年間は休みすらなく、月の労働時間が多い月だと450時間位はいってました。当時はもう無我夢中でしたよ。 その上場コンサル会社で5年間働いて独立しました。今では自分の会社を立ち上げて仕事をさせてもらっています。中学からの和光の同級生の前田とも良く会っていて、彼はIT業界ですが、飲食業界もそういうIT分野においては遅れているので「飲食店のDX化を促進しよう!」という思いから、2人でIT関連の会社も一つ立ち上げました。この会社でサブスク型の評価制度システムやDXマーケティングシステムも作

卒業生インタビューvol.43

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今回の和光人インタビューは、中学・高等学校と和光学園で学ばれ、海外からも注目のバンドMAN WITH A MISSIONや若年層を中心に人気のベリーグッドマンなどのアーティストマネージメントを手掛けている南部 喨炳(りょうへい)さんにお話をうかがいました。 在学中はバスケットボール部で中心的な役割を担ってこられた南部さん。その後、高校で始められたというDALLAXというバンド活動は、今年20周年を迎えたそうですが、現在のアーティストマネージメントにも役立っている部分が多いのだそうです。 今後はどんなことをお考えなのでしょうか。どうぞお楽しみに。(聞き手…両角憲二常務理事・前中高校長) MAN WITH A MISSONと共に 聞き手: 今日は。久しぶりですね。南部くんが活躍しているということは聞いていました。慶応を卒業してバンド活動をやっていて、そのバンドが売れ出したっていう感じですか? 南部: 自分のバンドは売れなかったんですけれどね(笑) 現在はMAN WITH A MISSIONやベリーグッドマンをはじめとするアーティストマネージメントをしています。 聞き手: 今回インタビューするにあたって、予備知識がまったくなくて困っていたら、このコーナーの担当者が、南部君とレヴァレント・ムース氏と中川悠介君との対談をプリントしてくれました。 MAN WITH A MISSIONというバンド名の中にMISSIONって単語が入っているけれど「任務」という意味で使っているの? 南部: バンド名を直訳すると『使命をもった男達』って意味ですね。見た目は頭がオオカミ、体は人間なんですよ。オオカミバンドって言われてます。沢山の方々のご協力をいただき、日本ではオリコンチャートで1位を獲得できるバンドになってきました。 また、ライブで言いますと、阪神甲子園球場、日本武道館、各地アリーナ等、万人規模でのコンサートもおこなえるようになってきました。そのMAN WITH A MISSIONとずっと二人三脚でやってます。 聞き手: それはすごいですね。 この雑誌の対談を読むと、国内だけでなく海外ツアーも組んでいるようですね。 南部くんは、お父さんが水産会社勤務で、確かセネガルにいたんだよね?小学校5年までだったっけ? 南部: 先生、僕がセネガルにいたって良く憶えてますね(笑) 聞き手: 私は

卒業生インタビューvol.42

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今回は和光大学在学中よりSAKEROCKで活躍され、現在ではドラマに映画にCMにと、引っ張りだこの浜野謙太さん(通称:ハマケン)にお話をうかがいました。日常の家庭では良きパパでもあるようですし、一体日頃はどんなことを考えていらっしゃるのでしょうか。 今回のインタビューは、学生時代のことや今現在のことを、敬愛してやまない師匠!という大学の堂前雅史教授との対談という形でお話しいただきました。 最近の活躍について ------随分とたくさんのテレビに出ていらっしゃるんですね。最近のCMではご家族で出演されていたり、ご自身のトロンボーンを演奏を披露されたりと、また新たな一面を見せていただきました。 もう、テレビで見ない日がないくらい色々とご活躍中ですが、最近はやはりお忙しいのでしょうね?---------(学園広報) 堂前教授(以下、堂前): そうそう、なんだか面白いことを次々とやっているらしいよね。売れっ子になったから仕事を選ぶことが出来てるとか? 浜野 謙太さん (以下、ハマケン): 全然そんなことないですよ!!どんなものが合っているかなんていうのは、ボクよりマネージャーのほうが分かっていると思うけど。どうも(制作側と事務所側)双方の需要と供給みたいなものが合っていて、割と納得しやすいように出来てますね。 堂前: マネージャーさんの腕が良いんじゃないかな~。 ハマケン: たぶん、ボクがどういうキャラクターかっていうのがなんとなく分かってきたんじゃないかと。あぁ、こういうものもできるんだと。 堂前: そうするとオファーも来るの? ハマケン: そうですね。そういうのもあるんじゃないかという気がします。お笑いだの、バラエティ番組だったりっていうのは、マネージャーも好きなんですけど、たぶん、出てほしいと思っているんでしょう…。オファーも来るみたいなんですけど、僕自身があまり向いていなくて、そういうことが多くて、今オファーがこなくなっているのか、きてるんだけどマネージャーが断っているのか、ボクには分かりません。 堂前: それとあと、なんかこうハマケンの芸の幅がそれなりにあるんじゃない? それが発掘されてきたってことなんじゃない? そういう感じでもないの? ハマケン: 自覚はないんですけれど、広がってきているというのはあるのかもしれないですね。確かに前よりは、役目に関して

卒業生インタビューvol.41

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今回の和光人インタビューは、和光大学の表現学部芸術学科を卒業された人気のシンガーソングライターの竹澤汀(たけざわ みぎわ)さんにお話をうかがいました。 在学中よりGoosehouseでの活動を始められ、UstreamやYouTubeの配信でも注目を浴びながらの大学生活の裏にはどんな苦労があったのでしょうか。 2017年2月の活動を最後にGoosehouseから正式に脱退され、ソロ活動に専念することになったそうです。今後どのような活動をお考えなのでしょうか、その辺にもご注目ください。 竹澤汀さん、名前の由来 聞き手:  こんにちは。早速ですけれど、汀さんってお名前はとてもめずらしいお名前だと思うのですが、ご自身ではどうお感じなですか? 竹澤 汀: 幼少期は自分の名前が嫌いでした。なかなか読んでもらえないし、かわいくないので…。奈々ちゃんとか○○子ちゃんに憧れていましたね。でも、こういう活動をしていると覚えてもらいやすいので、得してしてる部分が多いなって思います。 聞き手:  シンガーソングライターになろうと思われたのは、いつ頃からなんですか? またきっかけのようなものがあれば教えてください。 竹澤汀: 小学3年生の時に、ジュディマリを聴いて、バンドって楽しそうって思っていました。歌手を目指そうと思ったわけではなかったのですが、母には、何でもいいから歌にまつわる仕事がしたいって言ってました。なぜかはっきり覚えていて、それが小3の時の事でした。 それからも、歌を作ったり歌手を意識した活動を行っていましたが、歌手を目指して一直線という感じではなかったです。 聞き手:  そんな中でなぜ和光大学を選んだのですか?近かったとか?そもそも和光大学を知ってましたか? 竹澤汀: 私の出身は横浜なんです。実は和光は知らなくて。最初は音楽の専門学校に行こうかなって、高校生の頃はそう思っていたんです。じゃあ、ホントに音楽で食べていこうっていう気が私の中にあったかというと、私の場合そうでもなくて。音楽が好きで、それじゃあもうちょっと視野を広げて、芸術という視点で音楽を見た時に、芸術学科のある大学を探してみようと思ったのがきっかけです。 ただ、高校で芸術を専攻していたわけじゃないので、美大は難しいな…と考えていた時に、「東京で変わった人達が集まる大学があるらしいゾ!」って父が教えてくれたのが和光

卒業生インタビューvol.40

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インタビュー40回目となる今回は和光高等学校で学び、『平和ゼミナール』を立ち上げて、さまざまな体験戦争体験者の方の声を聞き、日本国憲法を学び、仲間と共に深く考え合ったことが弁護士を目指すきっかけになったという、新進気鋭の弁護士の白神 優理子(しらが ゆりこ)さんにお話をうかがいました。 『日本国憲法は希望!』と力強く語る白神さん。実は『高校生平和ゼミナール』で活動を始めるまでは、憲法には校則のようなイメージを持っていて、法律が大嫌いだったそうです。180度も考えが変わったのはなぜなのでしょうか。その辺にもご注目ください。 今回のインタビューは、『和光高校平和ゼミナール』のサークルの顧問をされていた松山尚寿先生(現 和光中学・高等学校校長)にお願いしました。 松山尚寿先生(以下、聞き手): 今はだいたいいくつくらいの事件を抱えているの? 白神: 50件くらいは…。でも普通です。 聞き手: 休みはとれているの? 白神: 私が所属している八王子合同事務所の所長は東京過労死弁護団の幹事長をしているくらいなので、所員がブラックな働き方にならないように気をつけてくれています。土曜・日曜に講演会が入った場合は、平日に代休とったりしています。 聞き手: 講演活動も結構しているそうだけれど、どのくらいしているの? 白神: もう弁護士事務所に入って丸3年が経って、この1月で4年目を迎えるのですが、3年間で160回くらいの講演をしました。だいたい講演会は土・日が多いんですが、平均すると月に4~5回くらいです。 《最近の近況やら当時の同級生のことで会話が弾みました》 和光高校という選択! 聞き手: 和光は高校からなんだよね?! またなぜ高校からだったの? 白神: 私は小学校・中学校と公立学校だったのですが、中学までは暗黒の時代でした。私の母は特に教育ママというわけではなかったのですが、詰め込み教育の学習指導要領や学校教育に疑問を感じていて、「授業についていけなくなったらかわいそうだ」ということで、私と弟を別々の塾に通わせてくれました。 私は小4から塾に通い始めたのですが、そこはたまたまA~F組までと成績によってクラス分けされ、1人ひとりの成績によって座る席順まで決められて、廊下に順位が張り出されるという塾でした。幼馴染の友人の子と同じ塾でしたので、手をつないで「一緒のクラスになれたら

和光人インタビューvol.38

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野澤 茉莉花さん 今回は鶴小・中学校と和光学園で学ばれ、その後、医学の方向へ進学して、現在、北里大学病院で放射線治療科の医師をされている野澤茉莉花(まりか)さんにお話を伺いました。鶴小在学中に聞いたホスピスの話がとても印象的だったそうで、それをきっかけに医師を志すことになったそうです。それまでどのような歩みをされてきたのでしょうか。また、放射線科は現代医学の中でも最先端技術ですが、専門に迷いはなかったのでしょうか、ご注目ください。 今回のインタビューは、鶴小の5年・6年当時の担任だった北山ひと美先生(現 和光小学校・和光幼稚園校園長)にお願いしました。 北山ひと美先生(以下、聞き手) : 本当に久しぶりですね。今日はよく来てくださいました。 野澤茉莉花さん (以下、野澤) : 先生、ご無沙汰しています。お元気でしたか。今日はインタビューに呼んでくださってありがとうございます。どうぞよろしくお願いします。 創世記の頃の鶴小を思い起こす 聞き手: 確か茉莉花さんは2期生で、3年生になった時に私がこちら(鶴小)に赴任して来て、最初は隣の1組の担任になったんでしたね。あの当時鶴小はまだ4年生までしか居なくて、集会っていうと3階の5年生6年生の部屋が空いていて、その教室を使っていましたし、遊び場にもなっていましたね。 3年生(の担任)が和田先生、4年生は?? 野澤: 和田先生は初めて担任で持たれたクラスだった…とこないだお聞きしました。4年生では上野先生が担任でした。そして5年~6年と北山先生に担任をしていただいたんでしたね。 聞き手: あの時は、私は3~4年で1組の担任、5~6年で2組の担任と、鶴小の2期生は全員どこかの学年で担任を持たせていただいて、とても思い出深い学年なんですよ。 たまに小学校はそういう形があったんですけれど、(3~4年で1組、5~6年で2組というように担任すること)私が学年を全部横に持たせてもらうというのは、後にも先にもこれが最初で最後だったんです。 あの頃、鶴小は大型動物を次々と飼っていましたね。(今もヤギがいますけれど)ヤギから始まり、牛も飼っていたし、私が3年1組を持った時クラスで「それでは何を飼おう?」と投げかけて、「ヒツジを飼おう!」みたいなことになってヒツジを飼いましたが、5~6年では茉莉花さん達も一緒にお世話してたんでしたっけ? 野澤

卒業生インタビューvol.39

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今回は和光高等学校で学ばれ、デザイナー・モデル・歌手と多才な活動をされている酒井景都(けいと)さんにお話を伺いました。和光学園在学中からオリーブのモデルとして活動をされていた景都さん。慶応大学卒業後に中田ヤスタカさん(Perfumeやきゃりーぱみゅぱみゅのプロデューサー)との音楽ユニットCOLTEMONIKA(コルテモニカ)は先進的な試みだったようですし、ご自分のブランドもお持ちです。どのような歩みが今に生かされているのでしょうか。また、今後はどのような活動を考えているのでしょうか、その辺にもご注目ください。 今回のインタビューは、高3時代の担任だった横山幸三先生にお願いしました。 横山幸三先生(以下、聞き手): 今日はわざわざありがとうございます。3年くらい前に「卒業生の話を聞く会」に来てもらったので、和光には、それ以来ですね。 酒井景都さん (以下、景都): こんにちは、お久しぶりです。先生、お変わりないようですね。今日はよろしくお願いします。 幼少期からの環境とは…。 聞き手: 景都さんのやっていることは、音楽とかデザインとか、絵本・エッセイとか広く手がけているんだなぁって感じるんだけれど、和光高校とはどんなご縁だったか聞かせてもらえますか? 景都: まず、私は生まれは東京なんですけれど、生まれてすぐに家族3人でイギリスへ行って、0歳~2歳はイギリスで育ちました。当時はイギリスの骨董品を日本に輸出する仕事だったんです。その後、両親は日本でイギリスのアンティーク屋さんを営んでいます。私の家はクリスチャンなので、小学校からミッション系の学校に行っていて、小学校は男女共学なんだけれど、中学からは女子校でエスカレーター式という学校に通っていました。そこは校則が厳しくて、三つ折りソックス、長い髪は三つ編みに束ねる、「ごきげんよう」が通常の挨拶で、来客の方がいらっしゃった時には、それこそ「ごきげんよう」の世界だったんですが、モデルの仕事がNGというところまでは私は把握していなかったんです。 ある時、雑誌の読者モデルに応募して通ってしまって、先輩の告げ口から先生に呼び出されました。「何で呼び出されたか分かってるわよね?」という先生の問いかけに、てっきりテストの点が悪かったから? なんて思っていたので「わかってます」と答えたんですが、その時は1ページ掲載された読者モデル