和光人インタビューvol.38

野澤 茉莉花さん

今回は鶴小・中学校と和光学園で学ばれ、その後、医学の方向へ進学して、現在、北里大学病院で放射線治療科の医師をされている野澤茉莉花(まりか)さんにお話を伺いました。鶴小在学中に聞いたホスピスの話がとても印象的だったそうで、それをきっかけに医師を志すことになったそうです。それまでどのような歩みをされてきたのでしょうか。また、放射線科は現代医学の中でも最先端技術ですが、専門に迷いはなかったのでしょうか、ご注目ください。

今回のインタビューは、鶴小の5年・6年当時の担任だった北山ひと美先生(現 和光小学校・和光幼稚園校園長)にお願いしました。
北山ひと美先生(以下、聞き手): 本当に久しぶりですね。今日はよく来てくださいました。
野澤茉莉花さん (以下、野澤): 先生、ご無沙汰しています。お元気でしたか。今日はインタビューに呼んでくださってありがとうございます。どうぞよろしくお願いします。

創世記の頃の鶴小を思い起こす

聞き手:確か茉莉花さんは2期生で、3年生になった時に私がこちら(鶴小)に赴任して来て、最初は隣の1組の担任になったんでしたね。あの当時鶴小はまだ4年生までしか居なくて、集会っていうと3階の5年生6年生の部屋が空いていて、その教室を使っていましたし、遊び場にもなっていましたね。 3年生(の担任)が和田先生、4年生は??
野澤: 和田先生は初めて担任で持たれたクラスだった…とこないだお聞きしました。4年生では上野先生が担任でした。そして5年~6年と北山先生に担任をしていただいたんでしたね。
聞き手:あの時は、私は3~4年で1組の担任、5~6年で2組の担任と、鶴小の2期生は全員どこかの学年で担任を持たせていただいて、とても思い出深い学年なんですよ。
たまに小学校はそういう形があったんですけれど、(3~4年で1組、5~6年で2組というように担任すること)私が学年を全部横に持たせてもらうというのは、後にも先にもこれが最初で最後だったんです。 あの頃、鶴小は大型動物を次々と飼っていましたね。(今もヤギがいますけれど)ヤギから始まり、牛も飼っていたし、私が3年1組を持った時クラスで「それでは何を飼おう?」と投げかけて、「ヒツジを飼おう!」みたいなことになってヒツジを飼いましたが、5~6年では茉莉花さん達も一緒にお世話してたんでしたっけ?
野澤: 動物のお世話はそのまま引き継いで1組でやっていましたね。私達はチャボとかウズラとか鳥をたくさん飼っていたんですよ。あとヘビ(笑)
聞き手:そうでしたね。和田先生がシマヘビを捕まえてきて、それ飼っていましたね。
野澤:シマヘビ2匹とアオダイショウ1匹です。
聞き手:いましたね~。高学年になったらいつの間にか居なかったですよね?
野澤:逃がしちゃったんですかね…。教室の後ろで真っ白になったと思ったら、脱皮していて驚いた思い出があります。
聞き手:そうでしたね。ヘビの専門家の方に来ていただいて首に巻いたりとかしていましたね。
野澤:色々飼いましたね。小学校の時は。カイコを飼ったのも衝撃でしたし。
聞き手:まさかピット作業まではしないんでしょ?
高橋: 私はスポンサー対応などのマネージメントをしながら、契約もいただくという感じですね。今年のチームグッズのデザインは私がしました。キャップとかTシャツ、マフラータオルなどレースでは必需品の商品です。ファンの方はドライバーからサインを貰ったりしますから必ず白いスペースを用意したり、商品のデザインを統一したり、様々な工夫をしてグッズはつくっております。
聞き手:この学校ははじめから、すごくたくさんカイコ飼っていましたね。何千頭という数のカイコを飼っていました。
野澤:こんな大きなカイコの板※みたいなのがあって、たまに脱走しているカイコもいたりして。桑の葉の匂いをかぐと鶴小を思い出します。
※蚕座(さんざ)=カイコを飼う竹で編んだ入れ物)
聞き手:そうでしたね。2階のオープンスペースいっぱいに広がって、農家のようにカイコを育てていましたね。桑の葉を採るのも大変でね。
野澤:そう、大変でしたね。桑の葉ないんですよね~。
聞き手:何頭かおうちへ持って帰って育てたりしてね。どこに行ったら(桑の葉が)あるとか情報を貰ったり。カイコのことが印象に残ってますか?
野澤: 私、カイコよりもヘビのほうが印象に残ってます。カイコは少し怖かったので。
聞き手:ヘビのほうが怖くなかったですか。カイコもヘビも3年生ですものね。今、考えてもスゴイですね。
野澤: 虫には確かに強くはなりましたね。得意ではないですけれど、あぁいるなぁ程度にはなりました(笑)
聞き手:世田谷はこちらほど多くはないんですが、学校説明会で3年生のカイコを見せると、何人かのお母さん達も「えぇ~っっ!!」って驚かれますよ。東京ではこんなに飼っているところはないかもしれませんね。総合学習では他にも印象に残る部分は多かったんじゃないですか?
野澤:なんでも自由っていうか、調べたいこと調べていましたね。
聞き手:4年生で川のザリガニ捕ったり、茉莉花さんのクラスは真光寺川でしたっけ鶴見川でしたっけ? あちこち河口のほうまで行きましたね。
野澤:鶴見川ですね。ここでどんなザリガニが捕れたとか、魚が捕れたとか地図を作ったりしましたね。
聞き手:茉莉花さん達の学年は奥多摩に行ってみようということで、合宿は多摩川の最初の一滴がわき出る水干(みずひ)がある笠取山に登り、奥多摩まで行ったのを覚えてます?あの奥多摩の一ノ瀬集落の民宿に泊まったのは後にも先にもこの2期生だけなんです。
※水干(水乾)(みずひ)と呼ばれる多摩川の水源
野澤:そうなんですか?
聞き手:大型バスが入らないのでマイクロバスに乗り換えてね。多摩川の源流に近く、すごく良いフィールドでした。かやぶき屋根の古い民家に1クラスずつ別々に泊まって。でも過疎地でその後民宿を継ぐ人もなく、ここでの合宿は一回だけでした。今は、和光小学校の4年生が奥多摩合宿で水干に行っています。今年は私も4年生の引率で、茉莉花さんたちといっしょに行って以来20年ぶりに水干に行くことができるので楽しみにしています。
野澤:色々なところに一緒に行きましたね。キャンプもしましたし。白駒の屋根裏にザコ寝したのも良い思い出です。親にしてみると長い合宿は不安だったらしいですが、川で遊んだり、料理したり、楽しくて楽しくてすぐ終わってしまったという印象です。
聞き手:5年生の総合学習「食」では、両クラスとも『米』をテーマにしました。竹でご飯を炊いたりもしましたね。隣の1組の担任は大川先生でしたね。
野澤:私はお菓子を作るのが好きなので、いかにお米をお菓子にするか考えてましたね。お母さん達にも知恵を借りてライスボールにしたりして。
聞き手:6年生の総合学習は『沖縄』ですね。今年、鶴小で『沖縄』20周年、世田谷の和光小で『沖縄』30周年を迎えます。あれから18年が経ったことになるんですね。
沖縄学習旅行ではひめゆり祈念資料館で毎年何人かの感想が張り出されるのですが、学習旅行でひめゆり祈念資料館に行くと、和光小からも鶴小からも去年の人が書いたものが選ばれて張り出されていました。 茉莉花さんが中学1年になった時、ニュースステーションの沖縄特集の最後のほうで、ひめゆり祈念資料館での感想が放送されたことがありましたけれど、番組の最後に茉莉花さんの感想が流れましたね。確か『平和はつくりだすものだ 茉莉花』って書いてあったと思います。
野澤:そんなこともありましたね。北山先生からその番組のビデオを送っていただきました。向こうの小学校との交流で、大森み神楽を踊ったのも覚えています。たぶん、今でも踊れるんじゃないかなって思います。1年生の時の虎舞は覚えてないかもしれないですけれど、今別荒馬、(扇で踊る)寺崎はねこ踊り、中野七頭舞…。結構覚えてるものですね。

人生の分岐点となった『ホスピス』の話

聞き手:動き始めると覚えていますよ。からだが。茉莉花さんは小学生の頃はなんでも真面目で一生懸命でしたね。「これやってみよう」って提案したことにちゃんと向かってくれました。
野澤: 今もなんですが、当時から色々やりたがりでしたね。
『沖縄』もそうですが、私が鶴小で1番印象に残っているのが、今の仕事にも関係あるかなと思っているんですけれど、ホスピスの話を聞く機会があったことでした。
聞き手:高学年の頃だったと思いますが、甲斐裕美さんが来て、ホスピスについて特別授業をしていただきました。当時はまだ甲斐さんは独身でしたが、その後結婚してお子さんを和光小学校に入れて下さいました。
野澤:話を聞くまでは病院は病気を治すところで、病気は治るものだと思ってましたが、ホスピスというのは自分の最期の迎え方を決めるってことを聞きました。医者になろうと思ったきっかけはあそこだったと思います。
最後は亡くなってしまうのかもしれませんが、放射線治療をして痛みを取ってあげるっていうのがあります。ガンの緩和治療みたいな、決して薬でドロドロして動けなくなってしまうのではなく、薬を使って痛みは取り除きつつ、その人がその人らしく居られる量を考えて、その人が納得できる治療をおこなうのです。
聞き手:一人ひとりが違う、色々なデータの中で考えていくわけですね。
野澤:場合によっては、全然家族が病院に来てくれない場合もあるので、私達がその人と最後に一緒にいる人になるので、体は辛くても心は少しでも軽くなって、最後を迎えられるようになれば良いなって思います。
聞き手:お父さまはお医者さんなんですか?
野澤: 製薬会社に勤めていましたね。今は調剤薬局をやっています。
聞き手:お母さまは?
野澤:昔はOLをしていましたね。今は専業主婦です。
聞き手:そうでした。お母さまは鶴小の親和会長もされていて、思わず聞き惚れてしまうようなスピーチをされる方でした。積極的に親和会活動もリードしてくださいました。

和光中学校で学んだもの

野澤:和光にいる間、リーダーは色々と経験させていただきました。鶴小では学級委員や班長などです。結構、何でもやってみるタイプなのですが、中学に入って、館山の総務に立候補した時には、私、部活を何もしていなかったし票がなかなか入らないと予想していたんです。そんな時、生徒会長もしていた今井智之くんが応援演説に立ってくれてクラス全員で応援して貰って嬉しかった思い出があります。結果はちょっと及ばなかったのですが、こう振る舞えば周囲はこう見てくれるんだ!と学んだ瞬間でもありました。
中学2年3年の担任だった井上岳史先生には、『茉莉花は1つひとつ積み上げて底上げをしていけ。みんなを持ち上げていくんだ!』って教わりました。
泰右にはダンスがあったし、野崎には電車が大好きっていうのがあって、今は東京メトロの運転手ですが、考えてみると、私には勉強しかないな…と思ったんです。そんな時に、鶴小で聞いたホスピスの話が頭の中をかすめたんです。私は人の人生に関わる仕事がしたいなぁって思い立ったんです。それがお医者さんだったということです。

和光で培った力が生かされた高校での生活

聞き手:高校は岡山にある学校に行かれたんですよね。寮生活だったという話をお母さまから聞いたんですが。
野澤:お医者さんになるには、私学で唯一の医学部のある附属高にいくのが、確実だと思ったんです。
聞き手:ご実家を離れて、不便はなかったんですか?
野澤:高校に入ると、いわゆる普通の学校でした。誰も寮長をやりたがらないんです。私には、和光で培ったバイタリティがありましたから、寮長…やってみよう!に変わって行きました。
いざ、やってみると上から引き継いだ仕事を何の疑問もなしにやるって感じだったので、私にとっては不思議に感じました。先生達の作ったルールは守るものだっていうところに違和感を感じて、指導生と呼ばれる風紀委員がいて生徒が生徒を取り締まる、なんてことも普通にあったので、生徒会長になって要求して、そういうルールは止めてもらいましたね。
例えば校則で色物のシャツはダメ!って言われたら、『なんで?』と問いただして、規則を変えていきました。先生方も野澤が言っているんだったら…というのがあったかもしれません。過去には、そんなことを言う人は居なかったらしいです。ただ、下の学年には悪いことをしたかな…と思っています(笑)。
高校は勉強ができて初めて評価される世界だったので、勉強がすべてだった感じでした。
聞き手:高校での勉強ではあまり苦労しなかったんでしょうか?
野澤:記憶に頼る部分が多かったので、特に苦には感じませんでした。例えば、和光の中学の社会の授業では、その物事が起きた理由を考える授業だったので、楽しかったのですが、ただ年号や事柄を暗記するだけの勉強は記憶力だけを問われていて頭を使っていないのかもしれません。
私が高校で好きだったのは、考えを書きなさい…というものです。物理とかは好きでしたね。
聞き手:高校で目覚めちゃったわけですね(笑)
野澤:はい、そうかもしれません。

そもそも鶴小に入ったきっかけとは…

聞き手:そもそも和光学園(鶴小)を選ばれたのはどうゆう理由だったのでしょう?
野澤:鶴小に入るのに、小学校受験をしました。自分で物事を考える人間になってほしい、成績ばかり追いかけて人間味のない人間には育ってほしくない…という親の考えだったように思います。
勉強しなさいとは言わない親だったので、私が医者になりたいなんて言わなければ、両親は高校・大学もそのまま和光で…と考えていたようです。
鶴小受験の時、みんなで遊ぶ時間があって、「ここに入りたい人~?」って言い出した子どもがいたんです。その時「ハーイ!」って手を挙げた人が入ったような気がしますが…(笑)
聞き手:実際、入ってみてどうでした?
野澤:木の実は取りあえず食べてみるとか、どんぐりのどれが美味しいか食べ比べっこをしてみたことがある、なんて話すとみんなに驚かれますね。そうそう、私が入った頃は、忍者道場なんていうのがありました。 鶴幼までの雑木林をかき分けかき分け入ったのですが、雑木林もだいぶスッキリしてしまいましたね。
聞き手:鶴小というのは、学校作りにお父さん・お母さん方に関わっていただいて時代とともに整備されていっています。
野澤:昔は雑木林に柵もなかったんですけれど、私がズルズルって滑って落ちてしまってから、柵ができてちょっと悲しかったような。もう熱中し過ぎて、家のそばでもみんなで忍者ごっこをしながら帰ったこともあります。
運動会はひときわ熱が入りました。親もチームカラーのTシャツを着たり、とにかく熱かったですね。
聞き手:子どもたちが真剣に取り組むので、親も我が子のチームを真剣に応援しますね。
野澤:そうそう、木村一喜&多喜兄弟のところなんかは、兄弟でチームが分かれてしまったんで、お母さんは半々の色に分かれたTシャツを着たりしていました(笑)

鶴小の卒業式

聞き手:そうそう。私は鶴小4年目で、茉莉花さんたちの担任として卒業式を迎えましたが、鶴小の初めての6年生が卒業式を迎えたとき、一番見てもらいたい保護者の皆さんの前で卒業証書を渡したいね、ということになり、花道を歩いてきてもらって渡すスタイルに定着したんですよ。
野澤:あの形も鶴小ならではですよね。
聞き手:成田先生が最初の卒業担任だったとき、前日ほとんど徹夜状態で花道になる山台を作ってくれました。そして翌日、卒業式を迎えたんですよ。次の年は卒業式の司会のはずだったのですが、窓ガラスに突っ込んで怪我をされ、他の先生に変わってもらったということもありました。
野澤:そうでした、そうでした。それからガラスに突っ込まないように、白いテープが貼られるようになったんでしたよね。

将来の夢…。

聞き手:将来、こうしたいなとか、こうなるといいなってことはありますか? 実際に夢だったお医者さんになった訳ですが…。
野澤:医者としてはまだまだ半人前なので、患者さんのニーズに応えられるようになりたいですね。まだまだ私などは入口なので、どんな癌治療にも対応出来るようになりたいですし、医者には言わないけれど、看護師さんには話せる患者さんもいるので、引き出せる・聞き出せる医者になりたいと思います。その人が満足して最期を迎えられるような手助けをしていきたいと思うんです。
その人らしく生きてほしいし、なるべく痛みを取ってあげて、好きな人と一緒にいさせてあげたいと思います。
聞き手:今の病院にホスピスはあるのですか?
野澤:ありません。しかし、放射線を当てて治すこともするし、家族が身近にいれば一緒に看取ることもしたいと思います。
聞き手:患者さんはこういうお医者さんがいて、幸せですね。

和光生へのメッセージ

聞き手:和光生になにかメッセージをください。
野澤:一般的には学校って勉強できてなんぼ、東大に入ってなんぼって言われている風潮の時代ですが、今、和光に入っている幸せを実感してください。ダンサーでも、庭が好きって言うのでも、なんでも良いと思うんです。動物が好きで獣医さんになる人もいるでしょう。私のこれまでを考えてみても好きなことを極めていったほうが良いと思うんです。和光生らしさ、好きなことや得意なことを極めていってほしいと思います。
聞き手:色紙になにかメッセージをいただきたいのですが…。
野澤:(『なんでもまずはやってみる』野澤茉莉花)これかなって思うんです。まずは自分を信じてトコトンやってみる。それでももしダメだったら引き返せば良いでしょうし、いくらでもやり方はあるのではないでしょうか。
聞き手:よい言葉ですね。この色紙、いただいて和光小学校に飾ります。今日はお忙しいところ、ありがとうございました。どうぞお元気でね。

(了)



《インタビューを終えて》 小学校時代の茉莉花さんは、おっとりとしていて、誰でも受け入れてくれるおおらかさがありましたが、 久しぶりにお会いした茉莉花さんは、しっかりとした意志を持って仕事をしていて、とても頼もしく感じました。小学校のホスピスの特別授業が医者になろうという気持ちに結びついたことは初めて聞いたことです。小学校、中学校での“体験する”“自分で考えて行動する”という和光で大切にしていることが、その後の生活の中で花開いているのだということもわかりました。医者としての目標もしっかり持っているところにも、和光の学びを感じ、また何年か後にお会いするのを楽しみにしています。(北山ひと美)



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