卒業生インタビュー Vol.48

 

Vol.48 三井 透さん(父)・智哉さん(子)《障がいケアマネジャー 》


今回の和光人インタビューは、高・大と和光で学ばれた三井透さんと、その息子さんで鶴小・中・高と和光学園に学ばれた三井智哉さんのお二人に親子インタビューをおこないました。

2009年11月に息子の智哉さんが北海道で車の大事故により、頸椎損傷になって車椅子生活を余儀なくされました。その後はリハビリに励み、現在は元気に仕事をしているとのことで、その苦難とこれからについて語っていただきました。 インタビュアーは当時和光中高校長だった両角先生にお願いしました。

(聞き手…当時 和光中学・高等学校校長・現和光学園常務理事 両角憲二先生)


今回の和光人インタビューのいきさつ

聞き手ご無沙汰しています。智哉くんとは2020年1月、コロナ禍前の和光中バスケ部新年会で、会って以来ですね。あの時、「智哉、どうしてる?」「会いたいな」って声があがり、私が電話したら、(お父さんの)透さんが送って来てくださった。バスケの連中とも久しぶりだった?

智哉ホントにあの時は久しぶりでした(笑)

聞き手みんなもとても心配していたから、智哉くんに会えて、すごく喜んだよね。

さて、今回のインタビューですが、引き受けていただきありがとうございます。

和光学園HP内『和光人 卒業生インタビュー』は、学園広報委員会が担当して老若男女色々な卒業生の活躍を紹介していますが、「次回の「和光人」誰が良いか?」という会議の中で、「あのMくんは、その後どうしていますか?」「Mくんって?」「和光中学卒業式の式辞で、両角先生が話されたMくんですよ」「あー、あの三井智哉くんね。その後どうなっているんですか?」「知りたい人、たくさんいるでしょうね」ということになったんですよね。

ということで、今日はよろしくお願いします。

智哉くんが大学卒業するはずの2013年3月、私は和光中学の卒業式で智哉くんのことを話したいと思い、お父さん=透さんに電話して「式辞で智哉くんのことを話して良いでしょうか」を確かめたんですよね。智哉くんのOKももらい、再三の電話で事実を確かめた上で私は式辞原稿を書きました。

卒業式当日、なんと保護者席にお父さん、お母さん、弟の雄哉くんの姿を見つけたときには、本当に緊張しました。HP「校長室から」に、私が退職した2015年まで掲載されていましたが、式辞原稿をプリントしてきました。

ここで2013年3月の卒業式の時の式辞を振り返ってみました。

2013年3月 和光中学卒業式 当時 両角校長式辞より

(前文略)

 卒業生のみなさん、君たちの記憶は何歳のときから始まりますか?記憶にはないでしょうが、出産時に生死の境をさ迷った人もいることでしょう。乳児期にいきなりの高熱を出して親をあわてさせたことは、1度や2度ではなかったはずです。幼少のころ大病を患った人、予期せぬ事故にあって数秒の差で命拾いした人もいるはずです。家族の愛情に守られて今日まで成長してこられたのだということを、改めてかみしめてほしいと思います。

そして、これからも家族の助けを必要とすることを自覚してください。そのひとつの例として、2006年に和光中学校を、09年3月に和光高校を卒業したM君のことを話します。


M君は09年4月に北海道網走市にある大学に進みました。和光中学、高校でバスケットボールクラブ員だったM君は、大学でもバスケットボール部に入りました。

その年の11月14日、体育館使用時間の関係で、練習は22時近くに終わりました。雨が降り出していました。下宿から大学まで自転車で通っているM君を、バスケ部の友人が車に乗せてくれました。M君は後部左側の座席に一人で座りました。走行中、水たまりにハンドルをとられ、車は右側を下にして横転しました。そのとき、M君は右座席の窓に向かって落下する形になりました。その後天地逆になった車体から救出されたM君は、意識不明の危篤状態でした。

連絡を受けたM君の両親は、翌朝、北海道に向かいました。生命はとりとめたものの、医師から「頚椎が損傷し、首から下が不随になるだろう」と聞かされたときの、両親の驚きと絶望の深さはいかほどだったでしょうか?

数日後、M君は意識をとりもどしました。そして動かそうにも動かせない下半身の異常に気がつきました。

M君の事故のことを聞いた私は言葉を失いました。中学時代のM君は、ほとんど試合に出られない控えの選手でした。それでも真面目に練習に励み、試合中はベンチから大きな声でチームメイトに檄をとばしていました。M君は、高校でもバスケをつづけました。M君の代の引退試合で、M君は、ナイスプレーを連発しました。

そんなバスケ大好きなM君の姿が思い出されました。同時に「Mは、もうバスケができないのか」という無念さばかりがこみあげました。


私はM君の事故の報告を受けた1週間後に根室市にいく用事がありました。その用事を1日早く済ませて、23日にM君の入院している北見市の病院に行きました。M君は集中治療室にいて、面会はできませんでした。廊下のソファーでM君のお父さんから話を聞き、最後に改めてお見舞いを述べて帰ろうとすると、「ちょっと待っていてください」とお父さんは集中治療室に入っていきました。医師の許可とM君本人の同意を得て、会えることになりました。

集中治療室に入る際、M君にどんな言葉をかけるべきなのか、必死で考えました。しかし、頭の中はすぐに真っ白になりました。お父さんに促されるままM君のベッドに近づきました。M君は呼吸器をくわえていて、首も固定されていました。天井を見つめたままのM君の目と上からのぞきこんだ私の目が合いました。M君のびっくりした目から一筋、二筋の涙がこぼれました。M君の手を握り、私の口から出た言葉は

「M、よかったな~」

でした。「生きていてよかったな~」と言うべきでしたが、M君はにっこりと笑い、わずかにうなずいてくれました。「先生、俺、大丈夫だよ」と言ってくれたようでした。

M君は翌年1月に、美唄市のリハビリセンターに移り、毎日厳しい訓練を受けました。M君の手は、極端に握力は落ちていましたが、動かせるようになっていました。3月には車椅子をこぐ訓練に入りました。大学から送られてくる講義のビデオと教材をもとに、レポートを提出し、1年生の単位を取ることもできました。そして、なんと障がい者用の車の免許も取得したのです。

退院してから3年間、車で通学し、大学構内では車椅子で移動し、大学生活をつづけました。私が昨年10月に北見市に行った際には、女満別空港まで車で会いに来てくれました。会社を辞めて網走に移り住んだおとうさんが助手席にすわっていました。

そして、今度の日曜日・17日に、晴れて大学を卒業します。

ここで考えてみます。M君が自分の置かれた状況を受け止め、そこから立ち上がれたのはどうしてでしょうか?「生きる力」は、どこから湧いてきたのでしょうか?

私はM家の家庭教育に思いをめぐらさずにはいられません。M君と両親が「世の中、競争社会。負け組には絶対なるな」という考えや、障がい者に対する差別意識をもっていたら、半身不随になった時点で「Mの人生、終わった」となったはずです。

M君家族は、生命の尊さ、生きる喜び、学ぶ楽しさを大切にしてきたのでしょう。「生きる力」は激しい競争の中で根性論をたたきこまれて育つのではなく、家族の間の愛情や他者への思いやりといったしなやかさの中でこそ育つのだということを、私は再認識させられました。

そして、私は思います。M家の家庭教育と和光教育が融合して、M君の人格と「生きる力」は形成されてきたのだと。M君が和光中学の総合学習で学んだ「障がい」や、障がいのある者もともに楽しむためにはどうしたら良いかを考えたオリテ運動会やタテヤマ、そして和光高校の体育祭などの経験が、きっとM君の生きる力につながったのだと思うのです。

M君は、この4月から1年間、相模原市にある職業訓練校に通って訓練を受けるそうです。1年後、M君が職に就けることを願うばかりですが、そのとき思い浮かぶのが、大和先生から聞いた話です。君たちも1年生1学期の総合学習「障がい」で聞いたのではないでしょうか?

大和先生の長女・桂子ちゃんは……今、37才ですが……2才になる前にかかった大病の高熱で重い知的障がい者となりました。大変なことはたくさんあったはずですが、大和先生は

「でも、桂子がいて幸福だよ」

「最近、ひらがなで“やまと”が書けるようになったんだよね」

「桂子は人をだましたり、疑ったり、ねたんだりっていうことをしないから、こっちの心も洗われる感じなんだよね」……

などと明るく語ってくれます。そして、桂子ちゃんが養護学校を卒業して作業所に勤め、初めての給料をもらってきたときのことを話してくれます。

その日、桂子ちゃんはお母さん……大和先生の奥さん……と買い物に行きました。いつもはお母さんの持つカゴにほしいものを入れる桂子ちゃんが、その日は自分でカゴを持ったそうです。そして、レジでお母さんが支払いをしようとすると、桂子ちゃんはお母さんを押しのけ

「今日は、桂子が払うの」

 と言って、給料袋を出したそうです。また、あるときは

「今日は桂子のお給料日だから、みんなにご馳走してやる。何食べたい?どこのお店に行きたい?」

と聞いたそうです。

大和先生は、この話につづけて

「やっぱり、働くということ、働いて金を稼ぐということは、人間の誇りというか尊厳にかかわるんだよね」

といった意味のことを話してくれます。初めてこの話を聞いたとき、私は正直、涙があふれました。何度聞いても胸が熱くなります。

日本国憲法第27条「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ」の条文の意味を、これほどわかりやすく説明できる話はないように思います。「すべて国民」のなかに障がいのある者もふくまれていること、障がい者を決して差別してはいけないことが「すべて」にこめられていると思うのです。障がい者雇用促進法が定められたのも、憲法27条に基づいてのことでしょう。しかし、なかなか実施は徹底されていないのです。だから、M君の1年後が心配なのです。

(後略)

…ということを2013年3月の和光中学校の卒業式で紹介しました。


運命の事故を振り返る

聞き手透さんは、智哉くんの事故のことをその日(2009年11月14日)のうちに連絡をもらって知ったのですか? 

透:その日というか夜ですね。最初は網走の病院からの電話でした。どういう状況かさっぱりわからないので、「命は大丈夫なんですか?」って聞いたら、「そんなのわかりません」っていう言い方だったと思います。「とにかく、すぐ行かなきゃいけない」と、かみさんと2人で行きました。

聞き手私のほうは、卒業生の誰から連絡もらったのか思い出せませんが、とても驚きました。その数日後に私は根室に行く予定がありましたが、予定を1日早めてもらって、根室から北見の赤十字病院に行ったんですよね。会えるかどうかは分からなかったけど、とにかく行きました。「お父さんは廊下にいると思います」というので行きましたが、集中治療室の前には誰もいませんでした。

透: もうあの時には病院からすぐ近くのアパートを借りて住んでいましたので、多分そこに戻っていたのかもしれないです。

聞き手透さんが治療室前に戻ってきて、しばらく事故の状況や智哉くんの現況を話してくれましたよね。当然「面会謝絶」だったので、私は「智哉くんに会えないけど、よろしく伝えてください」と帰ろうとした時に、透さんが「ちょっと待ってください」と言って、治療室に入っていったのですよね。

確かに面会は家族だけで謝絶だったんですけど、医師か看護師に事情を話したら、OKもらえるかもしれないと思ったんですよ。

聞き手治療室から出てきた透さんから「ちょっとだけなら会ってもいいそうです」と言われて、私はよもやそういう展開になるとは思っていなかったので、頭が真っ白になりましたね。ベッドに近づきながら、「智哉はどんな状態なのだ?」「意識はあるのか?」と頭は混乱状態でしたね。 

智哉目が覚めても何も分からなかったっていうのが正直なところで、手も動かなかったし、喋ることもできませんでした。ただ、身体が動かせないというのは分かりました。

聞き手智哉くんはベッドの上で、ずっと天井を見たままだったよね。目だって動かせなかった?

智哉目はギリギリ動かせました。

聞き手私が上から覗きこんで智哉くんの目とあったとき、智哉くんがす~っと涙を流したんですよね。私が「智哉、よかったな」って声かけしたほうが先かな。「命があってよかったな」の『命があって』を省いてしまったけど、でも、智哉くんはすぐ意味を分かってくれたんだろうね。私も涙がポロッと出てね。「本当に生きててよかったな」って。

智哉もう、あのときのぼくは「よかった」ことを、何一つ感じてなくって、「もう、これからできなくなること」ばかり想像していました。先生が「良かったな」って言ってくださったとき、「あっ、良かったんだ」「だって生きてるじゃないか」みたいなことを実感できた瞬間でもありました。気が楽になったことを本当に覚えています。

こんなに大きなことになっているって気づくのにだいぶ時間がかかって。感覚がないから痛くないんだってことを理解するのには、すごく時間がかかりました。先生とお会いしたときはまだ「なぜ、体が動かないのか?」っていうことを理解する前でした。何となく自分がこれからどういう道をたどるんだろうなっていうことを考え始めた、そんな時期でしたね。

透:智哉はあまり感情を表に出さない方ですね。僕らが最初に駆けつけたとき、表情一つ変えませんでしたよ。先生に会った時は、やっぱりこみ上げてくるものがあったのだろうと思います。

聞き手: 最後のシーンというのは車が倒れるところ? そこまでは覚えてる?

智哉:実は車から出るギリギリのところまで記憶はありました。その後の記憶は全然ないんですけれど、救急隊の人と受け答えしていたんだそうです。後で、救急隊の人に教えてもらいました。

透:最初は全然想像できなかったですね。まさかあんな交通量の少ない道路でもう何が起こったのかっていうのがわからない。

智哉:確か下り坂から立ち上がってくるところでした。あの事故が起こってすぐに神経がやられちゃってたんで、痛みはまったく感じなかったんですよ。

透:もう完全にすごい状態になっていたということで、大学の先生や事務の方もかけつけてくれたそうです。それでそのまま北見の病院に搬送されたそうです。

聞き手:その後、智哉くんが持ちこたえて、退院して、美唄のリハビリ専門病院に行ったんですよね。

透:北見の病院の先生からは、「もうこの処置はここまでしかできない」「骨折した脊髄を固定するのはできない」と言われました。

智哉:「次にリハビリすることは決まっているから、リハビリもできる美唄の専門病院に移りましょう」ってことだったと思います。この脊髄の障害って、いかに早くリハビリに移るかが勝負らしいんですよね。

透:北見の病院の先生が、昔その美唄の病院にいた脊損専門の先生でした。「神経が固まってしまう前にリハビリした方が良い」という話になって、退院しました。真冬でした。

智哉:ちょうどクリスマスの日に転院しました。


リハビリの日々 入院患者に対して病院初めての試み

聞き手:あの頃、薬師池公園や電器屋やスーパーで、不思議なほど透さんに会いましたよね。その折り、私は智哉くんがリハビリに入ったって聞いて、パッと思い浮かんだのは星野富弘さんなんですよね。

星野富弘さんって、群馬で中学校の体育の先生だった人です。教師1年目の授業で跳び箱をやって、首から落ちて、それで首から下が全然動かなくなった。もちろん教師は辞めざるを得ませんでした。でも、富弘さんは絶望の淵に沈んだままでなく、口は動かせるので、その口に絵筆をくわえて絵を描くようになったんですよね。

私は、群馬県みどり市の富弘美術館に何度も足を運んでいたので、「智哉は富弘さんみたいになってしまうのか」って想像して、心配していました。だから、透さんから、「握力は少しだけあったので、リハビリをして握力が少しずつついてきました」って聞いたときは驚きましたね。遮断されずにつながっていた神経が残っていたということですよね。

智哉:自分もその後知ったんですが、自分が損傷した個所より2つ分上の部位を損傷していたら星野さんと同じレベルになったのだろうと思います。

聞き手:2つ分下だった。それは本当に運が良かったと言っていいのかな。

智哉: 基本的には損傷した部分より下の部分が動かなくなるって言われているんで、その辺は当たりどこっていうか、運なんですけど。

聞き手:それからリハビリを頑張ったってことですよね。

透:想像を絶する壮絶なものだったと思います。 

智哉:正直言ってリハビリに移れたときはすごく嬉しかったです。それまでは、できないこととマイナスなことを考える時間でしかなかったんです。でも、リハビリが始まってから、もちろんツラかったですけど、リハビリで疲れた分、ベッドに戻ったら余計なこと考えずに、すぐ眠りにつけるようになりました。余計なことを考えなくてすむようになったっていうのは、精神的にすごくありがたかったです。

聞き手:手を動かそう動かそうとして、神経を必死に使ったことによる疲れなんでしょうね。

透:その病院には同じような症状の人たちが結構いました。周りはみんな年配の方なんですけど、若い智哉が必死になってリハビリをやっている姿を見て、皆さん「励まされる」と言って、智哉をかわいがってくれました。また後から若い子も入ってきましたが、絶望的な感じになっていたのに、智哉のそういう姿を見て、一生懸命頑張りたいと考えを改めたそうです。

それを見ていた先生たちが智哉を一生懸命支援してくれるようになり、「車の免許取りませんか?」と言ってくれるまでになりました。

智哉:常識的に考えたら、入院中に外出して免許を取らせてくれるなんてありえないですよね。病院側の人たちがすごく融通を利かせてくれて、自動車学校に通わせてくれました。今考えても本当にありがたさを感じます。

聞き手:それは、やっぱり周りから応援したくなるような智哉くんの人柄というか、生き方があるからですね。「もう俺の人生終わった」「もう何もしたくない」と、スネたり、ひがんだり、絶望してしまっていたら、周りだって応援しようとは思わなかったでしょうね。

でも、透さんから「智哉が免許証取りました」って聞いたときはビックリしましたね。「そこまで回復したんだ」って嬉しかったですが、「本当に一般道を走れるのかな?」という不安も感じました。

透:免許を取ったと言っても、特別仕様車も作らなきゃいけないし、短い間だったんですけど、紆余曲折いろいろありました。なにせ車を作ってくれた工場が岩見沢だったんですよ。岩見沢の工場で車を引き取って美唄の病院まで戻るときには、もう智哉が運転しました。あれは実に怖かったですね 

聞き手:退院してから石北峠を越えて網走に戻ったのですよね。雪の石北峠はなかなかの難所ですよ。 

智哉:それがあるので、なかなか友達に「見舞いに来て」とは言えなかったですね。

透:網走に引き上げたときも智哉が運転しました。今考えてもすごいことだよね、智哉。

病院も入院患者に車の免許を取らせたのは智哉が第1号だったそうです。だから退院して病院を車で出発するときには、先生も看護師さんも職員も患者さんもみんなが別れを惜しんで、「頑張れ!」と言ってくれて……、あのときの病院のあの場面は忘れられませんね。


紆余曲折、『生きる力』とは…。

聞き手:私が智哉くん運転の車に乗せてもらったのは、網走・北見地域のオホーツク教育研究集会に講師として呼ばれて行った2012年の秋でしたね。2010年秋にも呼ばれましたが、そのときは、北見の先生が車で迎えにきてくれました。

透:そうでしたっけ。もう、全然覚えてないです。

智哉:何かありましたっけ?

聞き手:女満別空港に迎えに来てくれましたよ。(卒業式)式辞に書いたように、智哉くんが運転して、透さんが助手席にいました。「本当に運転しているんだ」って、ビックリしました。正直なところは、ちょっと怖かったかな。そのとき、透さんと智哉くんが住んでいるアパートの横を通ってくれましたよね。

透:私が会社を辞めて網走に移ったのは、智哉が退院して大学に戻る際に、「やっぱり雪の降る土地柄、車椅子を使う、しかも野外の実習とか多い中で、やっぱり難しいんじゃないか」「一人暮らしはとても無理なのではないか」って言われたからなのですね。「同じ東京農大ですから、厚木キャンパスに移った方が良いのじゃないか」とも言われました。

結局本人はそのまま残って、「友達…その時点でもう仲の良い友達がいたんで…と一緒に卒業したい」「単位も遅れず取りたい」ということで、先生にも無理言って病院に来てもらったりもして、何とか間に合ったというような感じなんです。

智哉:障がい者になっても常に道はあったなと思います。

大学に戻ってからも、みんな、ぼくが障がい者だからといって何かベタベタ特別扱いするとか、かわいそう扱いするってことは一切なかったですね。先生もあんまり特別扱いしなくて、野外実習をレポートに置き換えしたりとか一切しないで、「屋外での実習もとりあえず全部出てみろ」「1回参加してみろ」っていう感じで、一切特別扱いしませんでした。それはすごく精神的に楽でした。

後から聞いた話だと、普通、この頚髄損傷で首の方が折れてしまった大体の人は、呼吸ができなくなって死んじゃう人が多くて、生き残る確率は宝くじに当たるくらいの確率なのだそうです。なんていうか、障がいは負ったけど、生き残れたことは本当にラッキーものなんだと感じました。

運転できる機能も残存していたし、今考えれば、両角先生が最初に「生きていて良かったな」って言ってくれたところを、後々になって、より一層「その通りだな」って感じました。

聞き手:今日、特に聞きたいのはそこなのですよね。式辞に書いた「ここで考えてみます。M君が自分の置かれた状況を受け止め、そこから立ち上がれたのはどうしてでしょうか?生きる力はどこから湧いてきたのでしょうか?私は三井家の家庭教育に思いをめぐらさずにいられません」ということです。それはどこで育てられたと思いますか?やっぱりそれは三井家の教育? 

智哉:そうですね。昔から特に何かこれだっていうふうに決められたものではなくって、常に目の前に選択肢をいくつか用意してくれました。障がいを負ったその時も何か決められることなく、いくつかの選択肢の中から自分で決めて、あとは自分で責任をもって挑戦できる環境にしてくれたのは、ありがたかったと思います。障がいはあるけれど大学どうやって戻るかとか、こういう生き方している人もいるよとか、いろいろな選択肢を示してくれたので、ふさぎ込まずに済みましたよね。

聞き手:それは選択肢があるというふうに思える、そこが大事なのだと思いますよ。「もうこれで終わり」じゃないという、ね。だから、競争、競争で良い大学に入って、良いところの会社に入るとか、公務員になるとか、そういうことを目標にしていたら、そうはならなかったでしょ。


今の仕事について語る

聞き手:卒業式式辞で、大和桂子ちゃんの話にふれながら「M君が職に就けることを願うばかりです」と話したわけですが、どうですか、智哉くん。仕事は今どういうことをやっているのですか? 

智哉:ヘルパーステーションを運営しています。ヘルパー派遣との調整役に寄り添う派遣の大元の仕事をやっています。障がい者団体で仕事をして、今年から町田市の障害福祉部計画部会という福祉政策計画を立てる部署の委員にも選んでいただきました。

聞き手: 素晴らしいですね。そういう息子を育てた透さん、どうですか?

透:全くそういう意識はないし、「こうあってほしい」みたいな感じはないんですけど。

私に言わせると、「この子は、こういうことをするために生まれてきたのかな」っていう感じを持っていました。事故が起きたときも、これが運命っていうか、何となく普通の子とはちょっと違うなというふうにずっと親として見ていたところがありまして、やっぱり何か今こういう立場にいるのも運命なのかなと、僕は思っているんです。

あの事故が起きた時には私も必死で、とにかく「どうやったら残りの人生楽しく生きていけるんだろう」「どうやって生活していけるんだろうか」ってすごく考えて、あの時校長だった両角先生に「和光に勤めさせてくれ」とか言ってしまいました。「介助犬の仕事をしたら良いんじゃないか」と考えて、先走って介助犬として育てようと犬を飼い始めたりもしました。途中挫折してペット犬になってしまいました。結局は、本人が進むべき道を考えて、決めていくのだろうと思います。

智哉: 結果的にですけど、就職活動は1年間したんですよ。

でも、指がまともに動かないじゃないですか。タイピングは遅いっていうか、やっぱり健常者の人にはかなわないんです。健常者と同じ土俵でする仕事をさがすのはなかなか難しかったです。その1年間やっていた一般企業への就職を1回全部放って、「障がい福祉の世界に障がい者当事者が飛びこんでいくのが、一番社会貢献できるのじゃないかな」っていうところに行き着きました。


彼女が出来た!

聞き手:さて、透さんから聞きましたが、智哉くんに彼女ができたっていうことですけど、どうでしょうか? 

智哉: そうですね。ずっとその仕事上関係があった子に、向こうの方から「おつき合いしませんか」って言われて、びっくりしてしました。「こんな障がいのある者に、つき合って大変な思いをすることもわかっているのに、こんなこと言ってくれる人がいるんだ」って思ってしまいました。

聞き手: 智哉くんも彼女のことを「良いな」と思ってなかった?

智哉:それはちょっと思っていましたけど…(照)

聞き手:でしょ。「智哉さんは私のことをけっこうよく思っているのかな」っていうのを察知するんだよね。恋というのは(笑)。智哉くんの「この人、良い人だな」って思う気持ちが伝わるから、彼女の方も「つき合ってください」って言えたんだと思うよ。

智哉:でも、そういうふうに言ってくれる人がこの世にはいないだろうなって思っていたので、だからそのときはびっくりしちゃって「あの~、お願いします」って感じで、返事をしていました。後でよくよく考えましたが、嬉しかったです。

聞き手:それをお父さんとお母さんにいつ報告したの?

透:けっこううちはドライでして、割と…。うちはあまり普段そんなにいろんなこと話したりはしない家なんです。だから身の回りのことも割と勝手にそれぞれがやっていて、干渉しないっていう家なので、そんなことが進んでるなんて全然分かっていませんでした。聞かされたときは本当にびっくりしました。

聞き手:お父さんとお母さん2人居るときに話したの?

智哉: はい。確か。

透: 将来結婚できるような相手ができればいいなっていうふうにはずっと思っていましたけど、ただやっぱり、智哉がそこまで積極的じゃないのでやきもきしていましたが、本人に任せるしかないのかなと思っていました。

聞き手: びっくりしました?次に嬉しかった?

透: そうですね。嬉しかったのと、どうなんだろうな。上手くおつきき合いできんのかなというふうには、思いましたね。今でも思っています。

聞き手:彼女に会ったわけじゃないけども、そうやって智哉を好きになれるということは、彼女の方には障がい者に対する差別意識がないわけでしょ。智哉の世話をする中で、智哉の本質というか誠実さや優しさに彼女は励まされて、恋をして「つき合ってください」っていうことだよね。

智哉:そうですかね。

聞き手: 話を戻してしまうけど、その宝くじに当たるぐらいの確率って、さっき初めて聞きました。

智哉:生き残れて、本当によかったなって思います。

透:智哉のすごいところは、そこだと思っています。我々あのとき頭の中にあったのは、事故を起こした彼のことでした。彼も一緒に大学に残って勉強していたわけなので、智哉の親としては複雑な思いもありました。でも、智哉はそこに対しては何も、一言も言いませんでした。

聞き手:いや、まったく思わなかったわけじゃないでしょう?

智哉:もう思っていても仕方ないっていう切り替えもありました。自分が彼の立場だったらっていうふうに考えると、おそらくこのことは彼の中で死ぬまで消えないのだろうなと。あとで「一生かけて車椅子を押させてほしい」みたいなことを言われたんですけど、むしろそういうふうにしたら、お互いに負担だろうなと思いました。実際に彼は良いやつだったんですよ。チームメイトでもあったし、「あいつ、いつもディフェンスは上手かったな」くらいの思い出にしようと思いました。

透: 私は俗な人間なので、割り切れない気持ちをひきずっていました。もうそこは言いませんけど、「智哉の方が利口だったんだな」と、今は思うようにしています。そんな感じですかね。


後輩達に一言

聞き手:やっぱり三井家の家庭教育と大いに関係があるということですね。よく分かりました。

最後に、卒業生として後輩たちに一言、透さんからお願いします。

透:子ども2人を和光に入れたのは、うちのカミさん(※公立中学校教諭)の意向も強かったんです。公立の教育現場にいても、やっぱり子どもは私立のこの学校に入れてのびのび育てたいという意向がすごく強かったのです。私も和光は高校からですけれど、高校・大学と楽しく過ごさせていただきました。これまでやってこられたことに感謝しています。

聞き手:智哉くん、どうですか?

智哉:自分が障がい者になっても「和光って、いいな」と一番思っているところは、やっぱり自由と責任っていうところが感じられた空間だったっていうことですね。

やっぱり障がいがあろうがなかろうが、自由はあるけどその一方でその裏にある責任も自分たちがしっかり持っていくんだっていう意識づけの強さを和光で学べたことが、「今の自分の中で生きているな」と思っています。

一番皆さんに言いたいことは、「人生、いつ何が起こるかわからない」っていうことです。自分は学校で障がいの学習をしたときに、よもやその何年か後に自分が障がい者になるとは思ってもいませんでした。

もうひとつ皆さんに言えることとしては、何かやるとき・しそうなときに、その結果に対して責任は負えるのかどうか、しっかり立ち止まって考えていただけたらいいんじゃないか、というふうに考えています。少なくても、事故を起こした彼はそうかんがえているのではと思います。

ちょっと重苦しい感じですけど。

04


聞き手:はい、今日はどうもありがとうございました。


このブログの人気の投稿

卒業生インタビュー Vol.47

卒業生インタビューvol.42