卒業生インタビュー Vol.47

卒業生インタビュー Vol.47

今回の和光人インタビューは、中・高と和光学園で学ばれ、その後慶應大学から多摩美術大学に編入して卒業したという異色のアーティスト/ミュージシャンの和田永さんにインタビューしました。和田さんは、バンド「Open Reel Ensemble」を率いて年代物のオープンリール式テープレコーダーを楽器として操って音楽を奏でたり、「エレクトロニコス・ファンタスティコス!」というプロジェクトを立ち上げ、思い出の詰まった古い家電を新たな電磁楽器としてかき鳴らしたりといった音楽活動で知られ、「音と電気の魔法使い」とも呼ばれています。2022年夏のフジロックフェスでも登場して大いに盛り上がったそうです。故ISSEY MIYAKEさんのファッションショーの音楽を担当したり、坂本龍一さんとも交流があり、和田さんの最先端の試みは、多くの音楽家や研究者を驚かせているとも聞きます。 

和光中学校の時代には、現在も続くJAMセッション研究部を立ち上げた初代部長でもありました。今回は当時の学年主任だった星野実先生にインタビュアーをお願いしました。

(聞き手…当時 和光中学校学年主任・現在 和光大学・和光中学非常勤講師 星野実先生)


聞き手: 久しぶりに和光中高の校舎に入ってみて、どうでしたか?

和田: 実際にここに来てみると、こう何だか胸にこみ上げてくるものがありますね。やっぱりあの和光の時期っていうのが、今の活動の起爆剤というかエンジンをふかし始めた最初のブーンっていっている時期なのだなぁということを思い出します。うろ覚えの部分もありますけど、教室に入るといろんなディテールを思い出したというか、音楽室を見たときに、ここでジャムってたなみたいな…。なんか結構ドキドキしますね。恥ずかしい感じもあったり、やっぱり思春期だから毎日何かが起こるっていうワクワクドキドキした日々が、うわ~っと一気に蘇ってきました。


和光中学校に入るまで。

聞き手: 最初に和光中に来る前のことも、ちょっと聞きたいんだけど、3歳の頃、バリ島に行って、ガムランとの出会いが衝撃的だったらしいけれど、その影響からなのか、フライパンとか鍋とか調理器具とかそういう叩けるモノをいろいろと自分の部屋に持ち込んで叩いていた…という話を聞いたことがあるんだよね。どんな感じの子どもだったの?

和田: そうですね。まさにそういうことをやっていました。うん。家の押入れの中に70年代のロック・ミュージックのレコードを見つけて、レコードってどうやって聴くモノなの?っていうところから始まって、レコードプレイヤーを譲り受けて聴いて、結構衝撃的な音楽との出会いがありました。うわぁ、こんな音楽があるんだって感じで。プログレッシヴ・ロックという実験的な音楽なんですけれど、その頃にすごくハマっていたパーカッショニストがいたんですよ。ジェイミー・ミューアっていう、すごくマニアックなんですけれど、楽器以外も何でも叩いちゃうミュージシャンで、その人にちょっと憧れっていうか、あんな感じになりたいって思った時期がありました。

とにかく音の出るものを何でも部屋に集めていました。本当はドラムセットを叩きたかったんだけど、それも手に入らないからフライパンとか鍋とか叩けるものをカーテンレールに全部紐で吊るして叩きまくっていたというのは実際にやっていました。音楽を始めたのはその頃と言えますね。小学校高学年くらいになったある日、それを家にあったカセットテープレコーダーで録音してみたら演奏した音が再生できてこれスゲーってなって、今度はそれを再生しながらその上にまた音を鳴らして、拾ってきた2台目のラジカセに録音してみたんです。すると音が重なって鳴って、これまたスゲーって感動しました。後でピンポン録音と呼ばれる方法だと知ったのですが、テープの速度も変えたりしながら、身近なものを叩いた音をどんどん重ねていったんです。コピーを繰り返すと馴染みのある音が劣化していって、どこか異次元な響きに変わっていくのが面白くて、この時から磁気テープに魔力を感じ始めました。今でもその音源は残っていますがそんな感じで音楽を作り始めましたね。


聞き手: それが今の音楽につながるあなたの原点なんだね。ご両親も台所からフライパンがなくなっても、そういう独自性を許してくれていたんだね。近所から苦情とかなかったの?

和田: その頃、家の周りはおじいちゃん、おばあちゃん達で、あぁ、またやってる…くらいの温かい目で見てくれていました。

聞き手: 周り、家族も地域も、それを許してくれていたってことだね。

和田: 星野先生は僕が中学の時に「蟹足」って呼ばれていたのを憶えていますか?「金属でできた蟹の足の塔がそびえていて、それを叩くお祭り」というものを妄想していて、それをイメージしながら音を録音していたんですよね。和光中に入ってからも変わらず「蟹足」「蟹足」と言っていたら、気づけば自分が「蟹足」というあだ名で呼ばれていました。

聞き手: 音楽のほかにも興味はあった?

和田: 小学4年生くらいまではホームビデオを持ち出して、仲間と映像を作っていた時期もありました。友達と集まって、台詞も決めて劇みたいなドラマもつくっていて、それこそ映画を撮るみたいなことや、衣装どうするかとか工作みたいなことをみんなでワイワイやっていました。ただ、思い返してみると、高学年になってからはみんなテレビゲームに夢中になり始めて、そういうことに興味を失っていったんです。

聞き手: 周りの友達は、ゲームをやるために集まって、ゲームばかりするようになったということかな。

和田: そうですね。僕はテレビゲームには興味が湧かなくて、それでさっき話したような音楽づくりに熱中していきました。友達とも段々話が合わなくなってしまって、一人家で調理器具を叩きながらテープを回し「蟹足音楽」をもくもくと作っていましたね。


和光中学校の第一印象。衝撃走る。

聞き手: 和光中学に入ろうと思ったきっかけはなんだったの?

和田: 中学生になるという時に、とにかく制服が嫌だったんですね。なんで和光を知ったかというと、まず制服を着たくなかったからなんですよ。

聞き手: 公立中学の制服見て?

和田: 地元の中学校の授業を見学に行ったんですよね。そこで同じ服装でシーンと静まりかえった授業を見て、これは僕には無理すぎる!って思ったのが決定的でしたね。眼が輝いていなかった印象というか、それに加えて窮屈そうな制服でしょう…。

聞き手: それで探したのが和光中だったってこと?

和田: 通える範囲ということもあったし、実際に授業を観に行ったら、いろいろな髪型の生徒がいるじゃないですか。その中に髪をピンクに染めた女の子がいて、バッと手を挙げて「先生、分っかりません~!」って言っていたのには、正直衝撃を受けました。『えっ??その空気感ありなの?』って先生と生徒との距離の近さも感じましたし、休み時間もわーっとワイワイ喋っていて眼の輝きも違うし、ファッションスタイルもさまざまで、うお~っ、このワイルドさ、絶対ここに来たい!と思ったのを覚えています。 

聞き手: それで、入るために勉強もしたんだね。

和田: そりゃあ勉強しましたよ。これは絶対入りたいって思ったんです。入試での面接の時は、とにかくその想いを熱弁しました。熱が入りすぎて、面接官との椅子の距離が物理的にどんどん近づいてしまったことを覚えています。

 

念願の和光中学生になる。

聞き手: 実際に和光中学に入ってみるとどうでしたか?

和田: 毎日がすごく刺激的でしたね。ドラマのような日々でした。あとやっぱりルールを自分たちで話し合うって、あれはスゴいですね。他の学校にはないことですよ。飲食ルールってありましたよね?! あれを生徒たちが考えて書いたものが印刷されて配られて、生徒が「私達がこれまで作ってきたルールです!」って説明する。入学して何よりもそれがまず特徴的だなって思いました。

聞き手: 外部から入ると、まず自分たちで作ってきたルールって何?って世界だろうからな~。

和田: それを全校生徒で集まって、話し合うじゃないですか? いきなり民主主義でした。学年集会や生徒総会…。生徒同士の意見がマイクで飛び交っていて、生気がすごかったです。


今でも憶えている授業。

聞き手: ところで、今でも憶えている思い出深い授業とか何かありますか?

和田: 主事の田中伸子先生による社会の授業ですね。いきなり、「何故アフリカは資源が豊かなのに貧しいのか?」「何故アメリカには黒人が多く暮らしているのか?」と問いかけるところから始まったんですよ。今も根深い貧困や差別問題、BLACK LIVES MATTER運動の根源ともなる話から中学校の授業がスタートしました。そして先生お手製の教科書が配られて、奴隷制から人種隔離政策に至るまでのハードコアなアフリカ史について学んだんですよね。さらに、本来同じ土地の人々であったはずが、統治者のラジオ放送によって別々の部族名で呼ばれて煽られることで争いに発展していったという元祖情報戦争についても学んだりして、今でもその時に受けた授業は糧になっていますね。

ちなみに高校に入った時の世界史は「何故9.11テロは起きたのか?」という問いから始まりましたね。そこからハードコア中東戦争史が始まりました。中学の時に同時多発テロが起きて、高校でイラク戦争が始まったんですよ。毎日のニュースと授業がシンクロしていたのを覚えています。あなたはどう考えるか?ということを何度も考えさせられたし、ディベートは逆に自分と違う意見を考える訓練でした。今でも探せばどこかにノートが残っていると思うんですけれど、社会の授業はダントツで記憶に残っています。


行事での思い出を語る。

聞き手: 館山水泳合宿は泳いだんだっけ? 当時は沖6㎞の遠泳だったよね。

和田: 泳ぎました6km。水泳はあんまり得意ではなかったんですけれど、最後の夜に、浜で、みんなでワーッと歌う後夜祭! あの高揚感は半端なかったです。火を囲んでみんなで歌いまくるあのエネルギーは記憶に焼きついています。どう表現したらいいのでしょうか。現地に向けてみんなで歌う歌声集会も、進行も生徒が前に立ってやっていくんですよね。なんだかどこにポイントを置いていったら良いのかわからないぐらい、あれもとんでもない行事ですよね。5泊6日もすごく密な時間で、同級生や先輩・後輩の枠を越えて、歌い踊り狂ったのは良い思い出です。

聞き手: 異年齢の生徒が一緒に、5泊6日も共同生活するなんて、まず他校ではありえないことだろうからね。そこも強烈な感覚として、今でも残っているんだね。


有志文化集会・JAM研への想いを語る。 

聞き手: そんな和光中学校の環境の中で実際やりたいことは出来たのかな?

和田: 1年生の時、ロックな音楽をやりたくて、仲間を集めるようと、ポスターを書いたり声を掛けたりするんですが、それがなかなかうまくいかなかったんですよ。 ただ、2年生になると、1年生にメチャメチャうまいブルースギター弾くと噂の後輩が入ってきたり、すごく大きいヘッドホンでサイケデリックな音楽を爆音で聴いてるヤバイ先輩とか、4人くらい仲間が集まったんですよ。

聞き手: 和光中学は、クラブを作るのって、人数要件とか提案書とか結構大変なんだよね。

和田: そうなんですよ。最初みんなで提案書作りをしようということになって、それも全校生徒の前で提案したいと思いました。『中学生の悶々としたエネルギーは音楽に向くべきだ!』みたいなことを書いたのを今でも覚えています。ものすごいドラマがそこにはありました。楽器はどうするの? アンプはどうするの?部屋はどうするの?とか。顧問の先生はどうする? ずっと本当にできるの?できるの?って感じで。

聞き手: そうだよな。職員会議でも、もちろん議題にあがったよ。

和田: ジャム研も社会の田中先生に顧問になってもらって、仲間を集めて活動部屋もできて、楽器を中古屋さんとかに買いに行ったり、いろんな人からもらったりしてかき集めて始めたんですよ。ジャムセッション研究部(通称:JAM研)っていうのを立ち上げるって年が、たぶん僕が3年生の時だったと思うのですけれど、中学3年生ももう半分は過ぎていたと思います。

聞き手: そんなこともあって、執行委員長をやりたくなったの? 

和田: 発表の場として、いわゆるフェスも必要だと思ったんですよ。JAM研を作ったのと同じ頃に有志文化集会を立ち上げましたね。

聞き手: ロック研究部の中学校版のような感じだよね。確か高校の滝先生のドラムセットも借りてきたんだったよな。

和田: 滝先生はとにかく音楽に詳しくて、変拍子やシンセサイザーについて教えてくれて。時々高校のドラムやアンプを貸してくれました。要望書とか何とかクリアできたから自分のやりたいことと、生徒会執行部の仕事を両立させながら滑り込ませていきました。要求して、それが通るんだ!っていうことが実感出来たんですよ。

そうして人生で初めてのバンドを組んで、ジャム・セッションしたんです。シンバルを叩き、スネアを叩くとレコードで聴いていたあの音がする!そこに歪ませたギターが乗ってくると、ぶわーと新しい景色が広がっていく感覚がありました。そして、ジミ・ヘンドリックスやクリームのカバーに挑戦したり。中学生にしては選曲が妙に渋い(笑)。それで初めて大教室でライブをしたんですが、そこから自分もギターを始めたい、ベースを始めたい、ドラムを始めたい…っていうのが、女の子も含めてそこからどんどん増えていったんですよ。 OKAMOTO’S や ズットズレテルズ、チャラン・ポ・ランタンのメンバーもJAM研出身者ですね。


卒業前の『15歳の主張発表会』にて。

聞き手: 卒業前には、15歳の主張っていうのがあったよね。午前中はそれぞれの主張発表を聞いて、午後に有志の人たちで、映像、舞台で踊ったり、バイオリンやピアノを演奏したり、それで最後の最後が永くんたちのバンドだったんだよね。最後には気持ち良く思いっきりやらせてあげたいと思って、わざわざ相模原の公会堂を借りて、プロの音響も入れてやったんだよ。憶えている?

和田: そうでしたよね。感激でした。僕はドラムやりましたよ。

聞き手: そこでいまだに憶えているのが、永くんが「聴こえない聴こえない…」って、頻りに私に一生懸命聴こえないという仕草をしていたんだよ。 もう私は居ても立ってもいられなくて、「何とかしてください…」ってプロの音響の人に言うのだけれど、どうしようもなかったっていうのはいまだに憶えているなぁ…。

和田: そうでしたそうでした。あのときに一緒に演奏したメンバーは今でもバンドをやっているんですよ。Open Reel Ensembleの吉田悠くんは、あの時の15歳の主張で初めて一緒に演奏したんです。

僕は本番熱が入っちゃって結構力強くドラムを叩いていたんですよ。そうしたら、周りの音が聴こえなくなっちゃって。モニタースピーカーで他の楽器の音を聴けるようにしておくことがかなり大事っていうことをそこで直に学びました(笑)。

和田永さんと星野先生

その後の進路について。

聞き手: 高校は都立校進学も考えていたよね。私は学年主任として、「和光高校と比較するために、その学校の授業を見て来い、実際にその学校に行って直接目で見て来い」とアドバイスしたけど、どうだったの?

和田: 僕は授業ではなく、文化祭を見に行ったんです。そうしたら、流行のJ-POPしかやっていなくて、これはちょっと違うな~って思ったんです(笑)。

それで和光高校の文化祭を改めて見たら、ロックにレゲエにスカにヒップホップまでやっていたんですよ。もうこれは全然文化祭のレベルが違うと確信しました(笑)。

ちなみにその時に見た文化祭のステージでは、Taigenくんっていう、今はBo Ningenというイギリスでも人気のバンドのヴォーカリストが、グルーヴィなベースを弾いていたんですよ。

文化祭を見に行って、こりゃ和光高校しかないでしょう!って、和光高校に決めました。


やりたいことはトコトン追究したい!

聞き手: 和光高校からは慶応大学に特待生(授業料免除)で受かって、しばらく通ったのにその後多摩美術大学に編入したって聞いたのだけれど、実際のところはどうだったのかな?

和田: 良く知っていますね~。他のインタビューでは一切言ってないんですけれど(苦笑)

聞き手: AO入試のいろいろな話の中で、独自に自分で切り開いていくというか、特待生になるということは、永くんが自ら開拓していく可能性を慶応の面接官の先生が感じたんだろうと思うのだけれど、どんな話をしたの?

和田: とにかく未知の楽器を作りたいっていうことを話しました。ブライアン・イーノという尊敬する音楽家がいるんですけど、自分は非音楽家だと言いながらとんでもない音楽をつくるんですね。その方が「コンピュータにはアフリカが足りない」と言っていて、それを紙芝居で表現して、コンピュータにアフリカを加えたような楽器をつくってみたいです!とプレゼンした記憶です。

聞き手: 試験監督をゲラゲラ笑わせて大爆笑だったらしいとか聞いているけれど? 

和田: それはですね~、不得意科目は何ですかって聞かれたので「恋愛です」って答えたんです。事実ですけれど(笑)

聞き手: そもそも授業料免除だったのに何で辞めたの?

和田: それなりに出会いはいろいろあったし、飛びっきり面白い授業もあったんですけれど、産学協同とか産学連携って最近ではどこでも聞く言葉なのですが、企業とのコラボレーションっていうのを研究室がやっていて、個人のやりたいことよりも、企業の研究開発に学生を投入したり、教授の研究テーマに学生を投入するっていう形が多かったんですよね。

きっとお金が出るからなのでしょうけど、それは企業に入ってからできることですよね。そこから学べることはもちろんあると思うのですが、個人的な妄想を出発点とした音楽の実験を色々とやってみたかった僕にはちょっと合わなかったなぁと思います。そして4年間の成果として論文を書くっていうのが主軸にあったんですよね。何か物作りをするときにそれが社会的・学術的な価値がどこにあるのかを常に言葉で語らなければいけないのは、言葉を超えたところにあるものをつくってみたい僕には合わなかったんです。

聞き手: 多摩美術大学はいつから? それは永くんに合ったの?

和田: 3年次編入学をしました。美術側からの音楽も教えている大学ですね。これは面白かったですよ。

美術大学って個人の作品主義ですし、特に僕が通った学科では、前例がない方が尊い、逸脱している方が尊い(笑)。これまでにない世界をテクノロジーを取り入れながらいかに表現するかが問われました。心臓を呼吸で操りながらテンポを変えて、それを聴診器で爆音で響かせる先生もいましたし、自作楽器をつくっている学生も多かったです。なんとも形容しがたい音楽で、音大とも違う規格外な感じでした。

オープンリールのテープレコーダーを改造したバンドはここで始まりました。教室に何台も並べて怪しい音を鳴らし始めました。ブラウン管テレビの静電気を人体で拾ってビンビビンビンビンって音を鳴らせることにも気づいて、ここで電化製品を演奏することに目覚めました。


これからの展望を語る。

聞き手: これから新しくやろうとしていることは?今、どんなことを考えているの?

和田: 色んな古い家電から多種多様な「電磁楽器」を仲間とともにずっと作ってきていて、ようやくひとつひとつのポテンシャルが上がってきたので、それらを使って新たな「電磁民族音楽」と呼べるものをつくり極めてみたいですね。今までに聴いたことのないような、都市に生まれる民族音楽を作ってみたい!っていうのはこの間もずっと言ってきていることなんです。

10年経ってようやく楽器が育ってきて、奏法も増えて、仲間も増えてきて、だいぶスローペースなんですが、そこからやっぱり新たな響きの音楽を作ってみたいですし、もう1個テーマを挙げるとすれば、今までにないお祭りを作りたいっていうのもあるんです。それは電気をテーマにしたお祭り。自然のエネルギーであり、現代の礎となっている電気や電磁波がテーマになったお祭りっていうものなんですけど、役目を終えた家電を人々が持ち寄って奏でて、みんなで、例えば発電機のお神輿とか、家電でデコられた山車で練り歩くような、そんな奇祭がやりたいなと日頃から妄想していますね。海外でも展開してみたいですね。

ちなみに最近はプロジェクトの参加メンバーに中学生や高校生もいるんですよね。家電を楽器に変える活動は、参加型プロジェクトとしてオープンにメンバー募集しているんですけど、そうすると、自分でつくった家電の楽器を持ってくる人が現れるんですよ。自分の家の扇風機やテレビを楽器に変えて、ついこの前は「もう和田さんとセッションしたくて来ました。もうセッションしたくて作ってきました!」ってやって来た中学生がいて、せーので一緒にジャム・セッションしました。そうしたら、最初にバンドを組んで音楽したあの時のことが一気に蘇りました。ビートと電気的な響きが重なって解き放たれた時の初期衝動が。電気・電波・電子・電磁の波に乗るお祭りがこの先も待っていると思います。

 

聞き手: 話を聞いていて、やっぱり今の永くんの活動の原点として、和光での出会いや学びがとっても大きかったということがわかりました。そして、永くんは「一人でやろうとしてない」いつも「みんなを楽しませる」「その現場でのみんなが響き合う」ことを大切にしていますね。やっぱりみんなでやろうっていう和光中学の『共に生きる』の精神があって、館山の後夜祭の原体験があって、JAM研を立ち上げた時の高揚感があってのことでしょう。

でもなんだか面白いね。

和田: 一人で音楽をつくるところから始まったんですけど、和光での学校生活を経て、今も仲間とともに何かをつくることに夢中ですね。文化祭が終わらない(笑)。楽器を演奏したいというミュージシャンの方や、楽器を設計したいというガチの家電関連メーカー勤務のエンジニアが集まって今も日々創作に没頭しています。


和光生にメッセージ。

聞き手: 最後に何か和光生にむけてメッセージをください。

和田: 『へんてこりん』でも良いってこと。平坦な道をただ行くのではなくて、たとえ舗装されていない道でも、自分の閃きに敏感になって、好きなものは好きだ!それがここを歩く理由だ!と言える自分であって欲しいと思います。

あともうひとつは『考えるな!感電しろ。』です。

色紙

聞き手: 今日は長い時間ありがとう。また会いましょう。

和田: 久しぶりに僕の原点に立ち返ることが出来て、非常に有意義でした。星野先生もお元気で。


聞き手の星野先生より(感想)

卒業以来の久しぶり出会いでしたが、中学校時代の印象と変わらない、好奇心いっぱいで、みんなと手を繋いでやりたいことに無我夢中で立ち向かっていく和田永くんの姿がありました。彼はさらに海外にも飛び出して、「国境なき電磁民族楽器楽団」のような構想も持っています。彼の好きな言葉が「へんてこりん」と「考えるな!感電しろ!」。他人が見たら変なもの、使い古したものであっても、自分の感性とひらめきを信じて、仲間と力を合わせて共に動き出す。その際に「これをやったら変に思われるかもしれない」など他人の目をとか、世間の見方などをあれこれ心配して考えないで、自分の感じたことを信じて動き出す」ことを彼は大切にしています。あまりにも異質なところから、それも思いもつかないところからスタートする音楽なので、最初はみんなビックリするかもしれませんが、段々と世の中の方が永くんの異質性、ユニークさを理解して、追いついていくのかもしれません。まさにこれからは、「異質力で、輝く。」時代になっていく予感を感じさせられた対談でした。

退職して和光の卒業生と語り合うことが増えてきましたが、みんなユニークで、それぞれの独自性を持っていて、分野は違っても活躍している姿に出逢います。海外に飛び出して活躍する卒業生も多いですね。自由があって、最先端の学びがある授業づくりをしている和光という環境で学べることに、在校生は確信を持って学んでいってほしいです。


和田 永 (1987年生まれ)

中学校・高等学校を和光学園で過ごす。和光中学校では生徒会執行委員長を務め、JAM研究部を立ち上げて初代部長も務める。慶応大学に特待生で入学するも、多摩美術大学に編入して卒業。
2009年より年代物のオープンリール式テープレコーダーを演奏する音楽グループ『Open Reel Ensemble』を結成してライブ活動を展開する傍ら、ブラウン管テレビを楽器として演奏するパフォーマンス作品『Braun Tube Jazz Band』にて第13回文化庁メディア芸術祭アート部門優秀賞受賞。
2015年より役割を終えた電化製品を新たな電磁楽器として蘇生させ、合奏する祭典を目指すプロジェクト『ELECTRONICOS FANTASTICOS!』を始動させて取り組む。
その成果により、第68回芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。


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