卒業生インタビューvol.39



今回は和光高等学校で学ばれ、デザイナー・モデル・歌手と多才な活動をされている酒井景都(けいと)さんにお話を伺いました。和光学園在学中からオリーブのモデルとして活動をされていた景都さん。慶応大学卒業後に中田ヤスタカさん(Perfumeやきゃりーぱみゅぱみゅのプロデューサー)との音楽ユニットCOLTEMONIKA(コルテモニカ)は先進的な試みだったようですし、ご自分のブランドもお持ちです。どのような歩みが今に生かされているのでしょうか。また、今後はどのような活動を考えているのでしょうか、その辺にもご注目ください。
今回のインタビューは、高3時代の担任だった横山幸三先生にお願いしました。

横山幸三先生(以下、聞き手): 今日はわざわざありがとうございます。3年くらい前に「卒業生の話を聞く会」に来てもらったので、和光には、それ以来ですね。
酒井景都さん (以下、景都): こんにちは、お久しぶりです。先生、お変わりないようですね。今日はよろしくお願いします。


幼少期からの環境とは…。

聞き手: 景都さんのやっていることは、音楽とかデザインとか、絵本・エッセイとか広く手がけているんだなぁって感じるんだけれど、和光高校とはどんなご縁だったか聞かせてもらえますか?
景都:まず、私は生まれは東京なんですけれど、生まれてすぐに家族3人でイギリスへ行って、0歳~2歳はイギリスで育ちました。当時はイギリスの骨董品を日本に輸出する仕事だったんです。その後、両親は日本でイギリスのアンティーク屋さんを営んでいます。私の家はクリスチャンなので、小学校からミッション系の学校に行っていて、小学校は男女共学なんだけれど、中学からは女子校でエスカレーター式という学校に通っていました。そこは校則が厳しくて、三つ折りソックス、長い髪は三つ編みに束ねる、「ごきげんよう」が通常の挨拶で、来客の方がいらっしゃった時には、それこそ「ごきげんよう」の世界だったんですが、モデルの仕事がNGというところまでは私は把握していなかったんです。
ある時、雑誌の読者モデルに応募して通ってしまって、先輩の告げ口から先生に呼び出されました。「何で呼び出されたか分かってるわよね?」という先生の問いかけに、てっきりテストの点が悪かったから? なんて思っていたので「わかってます」と答えたんですが、その時は1ページ掲載された読者モデルでした。
聞き手:「ごきげんよう」なんていうのは、和光では無縁なので思わず憧れちゃう世界ですね(笑)
景都: そうですか?(笑)その後、専属モデルになりませんか?ってお話を頂いて、母と話し合って、こんなチャンスなかなかないよねってことになったんです。父はイギリスだったんですけれど、母と2人で、中2から家の近くの公立校に行くことを決めたんです。
聞き手: ご不在だったお父さんには、びっくりな話ですよね。帰ってみたら、「ごきげんよう」じゃなくなってしまっている。(笑)
景都:(公立中学校)そこはそこで楽しかったんです。先生も「おめぇら早く並べ!」的な学校に変わって、ヤンキーの男の子がいたりするのもまた新鮮だったんです。でも、そうこうしてるうちに、気づいちゃったんです。
自分が受験生になっちゃったってことに。そして、私の高校調べが始まりました。美術が好きだったので最初は女子美と吉祥女子などの美術系のコースがある学校を考えていて、まだ美術に絞ることないなぁとも思いながら、自分の条件に照らし合わせてそのあと候補に上がったのが和光と公立の神奈川総合。まず、モデルの仕事をして良い所っていうので、だいぶ絞られて来ましたね。


和光高校で学んだカルチャー

景都: 和光高校の文化祭に来て、オンステージを見て、楽しいな~ってだいぶココロを持って行かれました。出店とか生徒の雰囲気がとにかく自然だったので、和光高校が第1希望になったんです。
受験も推薦だったので、受かって晴れて和光高校に通うことになりました。
聞き手: 「ごきげんよう」から「ヤンキー」まで、ご自身の中で楽しく許容できてしまうところが実に幅広い。
和光では、ヤンキーっぽい人ってあまりいないですよね。つまらなくなかったですか?
景都: 私の中では、色々な人を見ることができたな…と思っていて、高校の友達の家に行くのも面白かったし、各家庭にはそれぞれ必ず文化があったように思います。
例えば、巷でジャニーズ系が流行っても私は聴かなかったんです。中学生の頃だとCharaとかジュディマリとかCOCCOとか独自性のあるものを好んで聴くのは、自分が変わっているのかと思っていたけれど、和光に入ったらそれが全然変わったことではなくて、むしろ普通でメジャーな曲しか聴かない部類に入るほうで、それよりも海外の洋楽や色々なことを知っている早熟な人がいて、親からの影響も受けたりして、逆に私が刺激を受けるような感じでした。
聞き手: 公立では音楽なんかの話ができなかったのが、ここにはそういうところにアンテナを張っている生徒がいっぱいいたのかもしれませんね。
景都: 藤井夏樹ちゃんって同じクラスだったんですけれど覚えてますか? 彼女の家はレコード会社で、ライブハウスも経営してたり、家に遊びに行くと色んなCDがとかあったり、ライブハウスも連れて行ってくれて見せてもらったりもしましたね。あとは、バンドしてる人とかも多かったから、全員じゃないかもしれないけれど、文化のレベルが高くって、他とはスタートダッシュが違う人が多いんです。今まで知らなかったことを仕入れるような時期でしたね。
聞き手:お話しをうかがってると、さまざまな影響を受けているようなのだけれど、ご自宅のアンティークに友達から関心を持たれたりとかはなかったですか?
景都:うちに来ると家じゅう古いものだらけで、ちっちゃい頃は椅子とかギシギシ言うし、塗装がはがれかけてたりして家じゅう壊れてると言われたことがあってコンプレックスだったんですけれど、和光の友達にはおもしろいねって言われたりしました。年齢とともに価値もわかるようになるんですけれど、これも一個の価値、アイデンティティなんだって思うようになりました。
聞き手: Oliveのモデルを中学から高校までやってたとエッセイにありますが、高校の教室にOliveとか生徒がよく持って来てました。よくはわからないだけど、和光ってわりとOlive路線というか、そういう流れの中にあったんじゃないですか?
景都:Oliveは今はもうないんですが、ちょうど全盛期は私が和光に入る前くらいで、和光生の読者も多かったようです。私が入学した前後の和光生ってボーダーの服にデニム。ポーターのバッグっていうのが定番のスタイルだったと思うのですが、和光って私服だからよく参考にしていたのかもしれません。フランスの女の子みたいな姿をカジュアルに落とし込むみたいないわゆるモテ系とは違う流れですね。他人に満足するというのとは違う目線で、自己満足を大切にするような感じがします。
聞き手: そのいわゆるモテ系がなんだかよく分からないのだけれど(苦笑)
景都: 今は違うかもしれないけど昔のJJとかCanCamとかはどちらかというと他人目線なんですよ。
聞き手: 酒井景都さんの担任をしたっていうと、今の子からは「スゴいね」って言われますよ。
景都: 中学は扱いが違っていて、当時テレビ CMに出演していたこともあってだと思うですけど「景都さん」「景都さんが来たよ」とか言われて同級生が同じ目線の友達にはなってくれないことがあって距離感を感じてました。和光だと生徒がそういうことに慣れているから普通でしたね(笑)
聞き手: その頃って、コギャルとかルーズソックスとか席巻した時代だったと思うんですけれど。
景都: 女子高生がニュースでも、もてはやされた時代だったのに、私服でユルユル過ごしていて、その時にしかできないことをしてない気がしていました。みんなで隔週の土曜日※1くらいは制服を着ようと決めて、他校の制服を友達から制服を借りたりして着てました。その時は、私も髪がピンク色だったので、今でいうコスプレみたいになっちゃって、まるでセーラームーンみたいでした(笑)
※1当時は隔週で土曜日に授業がありました。

聞き手: 景都さんがですか?(笑)
景都: 和光は日頃が私服だから女子高生感がなくて、みんな制服がサマにはなってなかったですね。日頃着慣れないせいか着こなせてなかったし…。


高1の時間割表はこだわりのフンデルト・ヴァッサー風

聞き手:教員が進路を指すときについつい服飾系とか言ってしまうのだけれど、デザインやファッションを頑張っていましたか?
景都: 服飾に進むっていうのは大学に入ってから考えたくらいで、高校から美術系の高校に進もうかなって考えていたくらいなので、主要5教科よりは選択授業に力を入れてました。作曲・演劇・映像・彫刻・表現など、和光高校の選択授業って大学並みに(選択の幅が)多いじゃないですか。私は必修授業以外は歌を歌って、絵を描いて、ホントに伸び伸び過ごしました。
1年の担任が美術科の髙橋拓也先生だったので、高校に入学してまず時間割表作りをするって話になって、周囲につくったら?!って勧められて、自由につくらせてもらいました。そういうところは、拓也先生もふんだんにお金を出してくれたので、ハンズへ行って、固い紙を買ってステンドグラスみたいな加工を施して、ダリの絵みたいなグネグネの時間割表を作りました(笑)見る立場にしたらすごく見にくかったと思いますよ。その時は、家族でオーストリアに行って見たフンデルト・ヴァッサーの建物に影響を受けたんです。
拓也先生の授業を取っている生徒も結構いたんですが、油絵で自画像を描くなんて時には、「いいか、見たまま描くな。ココロで描け!」とか言って、生徒は「ヒューヒュー」なんて冷やかしてましたけれど、結構おもしろかったですね。顔半分をジャガイモにする人もいたり、自由な表現の奥深さを感じましたね。


自ら切り開いていった進路

聞き手: どういう風に進路選択を考えたかっていうことなんだけれど、景都さんの2組って美大に行こうって人が結構いたんだよね。
景都:意芽志くんとかもそうでしたよね。私、元々は東京芸大か美大に行こうと思っていて、中1からデッサンしたり、ずっと絵の勉強は続けていたんです。それが高3の夏くらいから迷い始めて、絵の仕事がしたいのか、でも画家になりたいわけではないんだなって。服も好きだし、音楽を作るのも好きだし、モノが作りたいっていうのは決まっていて、紙に絵とか物語をつくるとか媒体が絞られないっていうのはあって、複合してたっていいんじゃないって高校生なりに考えていました。それで美大を受けるのをやめたんですね。
聞き手: 結局、慶応の環境情報※2に行ったんだよね。 AO入試だったよね。この頃はAOが始まって2~3年目くらいだったように思うんだけれど。景都さんは文章がすごくクリアというか明瞭に書けるなと思っているんですが、自己推薦書とかどんな風に書いたんですか。
※2 慶應義塾大学藤沢キャンパス(略称SFC)

景都: 主には受験のためにつくった現代アートとしての写真作品や音の作品、衣装の作品。今までずっと描きためていたデッサンや平面構成を資料として出したのと、将来やりたいこと。学校の成績と小論文、それに面接があって、高2の夏からそういうことをやってました。プレゼンでCDと絵本と一緒になっているようなものをつくりたいんですって話してました。提出した服の作品はトレンドとしてみんなが着るような服じゃなくてアートに近い服を作って、それで藤井夏樹ちゃんが写真をやっていたから受験の資料のために撮ってもらって、渋谷のセンター街でもそれ着て撮ってもらったのを資料に入れました。
聞き手: SFCというところは、専門的にこれを極めるってものがないと厳しいと聞いているんだけれど、SFCを卒業した人が和光の教員の中にもいるんだけれど、オープンキャンパスのあたりから、自分はこういうことをしたいとかSFCの教員とメールのやり取りをしてるくらいじゃないと、それくらいしないとダメって話があるんですけれど。 酒井さんのやってらっしゃることは色々な広がりがあると思っていて、オジサンの私が言うと的が外れてるかもしれないけれど、高校を卒業したときから、かなり先をいっているというのか、提案されているんですよね?
景都: 私の場合は好きな世界があって、好きなモノとか特徴だったりとかその世界観があって、私も大人になるから流動的に変わっていく部分と変わらない部分があって、何かしら表現したいっていうのがあって、服だったり音楽だったりとか絵だったり文章だったりしてもよくて、何でもよいですよね。メインとしては服のブランドをずっとやってるんですけれど、今後もしかしたら変わっていくかもしれないんですね。絵本を書きたいって今は思ってるんですけれど、そうしたら絵本作家なのかっていうとそういうわけでもなくて、それを何で表現したくなるかは、私もこの先読めないです。つくりたいことのコンセプトは決まってるけれど、たぶん大変だからやらないとは思うんですけれど、映画にしたいって言うかもしれないですね。
聞き手: 高校を卒業して酒井景都さんががんばってるらしい…っていうのは高校の職員室にも先生どうして話題になっていました。それで、「酒井さんは何やってるの?」なると、みんな「それがねぇ…?!」って先生達の頭では言葉にできないんですよ。 高校時代を一言でいうならば、ご自身にとってどんな時期なのでしょう?
景都: アンテナをひろげ感性を育てた時期ですかね。自分の幅が広がった、色んな世界が見れた時期ですね。『それでいいんだよ~』っていう感じで肯定してもらった意識はあります。職業だったり、性格だったり色々なジャンルの人がいて、色んな生徒と親がいました。人を見れたっていうのはあります。 高校生時期って、これでいいのかなぁ?って迷う時期じゃないですか。それでいいんだよ!っていう安心感がありましたね。
私は和光だけではなくて、色々行ったんでわかったんですけれど、和光じゃなかったら会えない人にその時期に出会えたのは大きな収穫ですね。たぶん、「ごきげんよう」の学校にずっと行っていたら、たぶんですけれど、高収入高学歴な男性を捕まえなさいみたいな、いい奥さんになりなさい、っていう人が多かったような気がします。和光高校では多様な価値観があっていいみたいなことを学びました。
聞き手: 当時から不思議ちゃんみたいなところはあったけどね…。
景都: 不思議ちゃんって言われるのが悩みだったんですよ(笑)。(自分の)職業の名前を決めようかなって何度も思ったんですけれど、一言でアーティストっていうのは、私の中ではおこがましくて崇高過ぎるんです。 市場に出て売られるような消費されるようなものも好きだし、アーティストとも違うファッションデザイナーという枠にもとどまっていなくて、言葉を新たにつくるとだんだん胡散臭くなってきて、マルチクリエーターみたいになっちゃって、それもイヤで常に迷ってるんですよ~。各媒体によって名称を変えてみたりしてて。 私には職人気質みたいなところがなくて、発想で動いちゃうようなところがあるんで、職人的な人と組んでアウトプットするようにしてます。だから、何でもできるわけではなくて、洋服をつくるときはパタンナーさんが要るし、最後は自分でできないんです。
聞き手: 今のお話で思いました。この職業から離れたら、のたれ死にするしかないみたいな一つのことしかできない人ってひょっとしたら変なのかもしれないですね。
景都: そういうのスっゴい憧れます!!(笑)
聞き手: バナナをつくってるだけの農家って、それだけじゃなくて、ちょこっと隅っこで自分の所で食べる色んな作物を育ててるみたいな、そんなことをイメージして聞いてました。
景都: 私、農家してたとしても、ちっちゃな畑で別のもの作っちゃうと思いますよ。例えば、トウモロコシ畑の子どもに生まれたとして、トウモロコシしか作っちゃいけないって流れでも、こんな作物作ったらおいしいんじゃないのって発想して色々作っちゃいますね。スポーツ選手とか書道家とか、ひとつのことで極めていくってスゴいなぁって思っちゃいますもの…。
聞き手: そういうところは高校の時から片鱗を見せてたっていうか、すでに大輪の花を咲かせてたかもしれないんだけれど、一年後何をしてるのかは分からないってこと?
景都: 自由でいたい、っていうのは上位にきちゃいますね。

華麗なるCOLKINIKHAの世界

聞き手: COLKINIKHA(コルキニカ)って(架空の)国があるのは知っていたけれど、中田ヤスタカさんと組んでいたユニットCOLTEMONIKA(コルテモニカ)っていう名前はどこから来てるんですか?
景都: 大学を卒業してコルキニカっていうブランドをやっていて、中田さんがcontemode(コンテモード)っていうレーベルをやっていたんで足してコルテモニカになったんです。
コルキニカって国の名前でロシアの近くにあるという設定で、その国の洋服という設定で、そのコンセプトを取り入れながら、実際にあるんじゃないかって疑ってほしいくらいの感じなのです。デパートのラックにコンセプトを書いておいたら、お話しにしたら面白いんじゃない?って言われて、歴史も織り交ぜながら講談社のサイトで連載小説をやらせていただいたこともありました。その頃、不思議ちゃんってよく言われました。最近ではあんまり言われなくなりました。
聞き手: 中田ヤスタカさん発信ではなく、真逆で酒井景都さん発信である…と書かれているものを目にしたことがあるんですが、つまりはどういうことですか?
景都: 先にこういう曲にして欲しいという世界観を、私が絵を描いて、絵を出してOKが出て、曲ができ上がってきたら、その上がってきたものに詩を書いて、できたモノをレコーディングして、っていう交換日記的な活動のことですかね。できてきたものにはお互い口出ししないっていうところがミソかと(笑)。
聞き手: 景都さんの世界観、景都ワールドというのか、コルキニカの世界の根底に流れているものはどういうところから、できているのでしょうか?
景都: 両親がやっていたアンティーク屋さんでまず海外のカルチャーが入ってくるじゃないですか。ビンテージだと色が褪せてたり濁った色合いだったりして、今ではない手仕事の刺繍があしらわれてたりするそういうのが好きになってっていうのが根底にあって、プラス、自分の好きな世界を入れて、コンセプトを入れて、それを服にして。中田さん自身はその時、歌手が欲しかったわけではなくて、服をつくっているような人と曲をつくってみたいというのがあったらしくて、人づてにこういう子がいるよっていうのが伝わって、マネージャーさんと会いに来てくれて、コラボレーションすることになったんです。ちょっとプロデュースというのとは違うのかもしれませんね。
聞き手: さっき、市場に出ている商品も…って言われましたが、やっぱり購買層は女性なんですか?
景都: 服とか雑貨は女性モノしかつくれないんで、音楽の場合はユニセックスだと思うんですけれど。つくりたいだけの服をつくると、誰が着るのか?ってなってしまうので、この色だったら展開があるかなとか、とにかく着れる服を作るというか、リアルクローズとは考えながらつくっています。
聞き手: 景都さんご自身で好きな色ってあるんですか?
景都: 年々変わっていくんですけれど、濃いブルー・グレーとか好きですね。原色ではない色が好きで、わかりやすい青とか黄色とかではなくって、混ぜて白を足したような色が好きです。
同じクラスの斉藤慶子ちゃんがアクセサリーを作っていて、今日着けているものは慶子ちゃんのです。一緒にご飯を食べたり、一緒に販売したりもしました。慶子こそ不思議ちゃんだと思うんですけれど、感覚は子どもみたいに純粋で、色の話とか、これ剥がしたらどうなるかな?とか、引っ張ったらどうなるかなって、心もキレイだし勉強もできましたよね。でもできる感じが全然しない…(笑)。
聞き手: 景都さんの名前の由来はどんなのですか?
景都: 両親がイギリスの名前にしたかったらしいんですよ。候補はサリーとかいっぱいあったらしいんですけれど。ケイトって日本名にしても景都って当てはまってますよね。昔はイヤだったんですけれど、今は気に入ってます。 《卒業アルバムを目の前に当時の思い出に盛り上がる》

最近の和光高校生、和光に足りないモノ?!

聞き手: 3年前に「卒業生の話を聞く会」にきてもらいましたけれど、最近の高校生はどうでしたか?
景都: 今も変わらず、面白かったなぁと思いました。たまたま、ファッションのほうの授業だったからそういうのが好きな人がいて、モデルの入夏ちゃんもいて、最初こそ緊張してたけれど、全員と話して楽しかったなぁって印象です。最近は、そんなに変わってるんですか?
聞き手: 世間一般的には、記憶量で勝負的な世の中になっているような気がするんです。暗記力みたいな。 他だったら、コミュニケーションとかホントに希薄になっているんじゃないかと思ってるけれど、景都さんの場合はそれとは真逆に繋がって、繋がってって、これも和光で培われた力なのかなぁって思いますね。
景都: 母に怒られたことがあって、和光できているせいもあって、敬語は一応、しゃべれるんですが、大学生の時にブランドを母と運営していた始めの頃、仕事を通じて色んなバイヤーさんと友達のように仲良くなっちゃって、目上の方なのに「おぅー、元気ぃ~!!」「元気だよー!そっちこそどうよ最近」みたいな接し方になっちゃって後で怒られました。結局、就職してないから、なんとなく周りを見ながら空気読みながら、メールの書き方とか名刺の渡し方とかそういうのは全部母に教わりました。
でも、気さくさとというか、人と気軽に接する和光生はコミュニケーション能力高!って子が多かったです。
聞き手: まぁ、そういうのは一般的にも卒業してからゆっくり学ぶものですね。

最近の活動について

聞き手: 最近はどんな活動をされているんですか?
景都: 『And Curtain Call』っていうブランドを一昨年の夏に立ち上げて、主にそのデザインと、イラストレーションのカレンダーや雑誌の表紙をかかせていただいたり、音楽では他のアーティストに作詞を提供したり年1ペースで執筆業、本を出版したりしています。けど最近では第1に家庭。毎日ご飯をつくったり、インテリアを考えたり、花をたやさず生けることとか家庭的なことを豊かにすることが今の私にとって重要ですね。春夏秋冬の一年を通じて、常に春の服みたいなコンセプトで年1回の発表会をして考えていたんですが、ルックっていう(※元レナウンルック)のアパレル会社の方と話を積み重ねて行ったら、うちでやろう!と言ってくださいました。秋冬の2シーズン目で、今は来年の冬(服)をつくっています。
聞き手: レナウンのルックさんにとどまらず、色んな人が声をかけてくれるって言うのは、なかなかないかなぁ~って思うんですけれど、ご自身ではそういうところをどう考えていますか?
景都: 何かしら発信し続けているのがいいのかもしれないですね。ネットもあるし日本でも海外でも反応してくれる人が現れて、やり続けていると知ってくれる人がいるんだなぁって思いますね。 中学の地元愛みたいな人も好きだし、和光の時の文化レベルの高い人も好きだし、慶応の活発で行動的な人も好きです。何となく自分をオープンにしているとそのぶん可能性は広がるような気がして、みんな来てください、みたいな感じにはしています。
聞き手:10年後こうなっていたらいいなっていうビジョンがあったら教えてください。
景都: やっぱりまず家庭があって、あとは物語をつくりたい。ずっと夢だったので絵本をつくりたいです。アプリやカレンダーで絵本はつくったことがあるんですけれど、ザ・絵本みたいなものをつくっていられたらいいですね。家にこもって自分の内側と向き合ってアウトプットするようなことができたりするかもしれないし、服もつくってるかもしれないですね。カウンセラーみたいなこともやりたいと思ってるんです。

和光生・読んでいる人に一言。

聞き手: 和光生に一言。今通っている人達やこれを読むであろう人に対して何かメッセージをください。
景都: 可能性を狭めないで欲しいと思います。一個のことをやり続けているとすると、一瞬何も見えなかったりするんですけれど、ずっとやっていると何かしら見てくれている人がいるんで、続けることが力になったりするので、それがすぐにお金になることでなかったりしても、やり続けたりすると何かしら周りも動いてくれたりするから、今からムリ!とか決めつけないでほしいです。
聞き手: 今日は色々なお話しをありがとうございました。卒業してみんなそれっきりではないっていうのが分かってよかったです。教員からは見えない、色々なところで若い人同士でお互い切磋琢磨し合いながら、けっこう続いているっていうのが実感できてよかったです。これも和光カルチャーかもしれませんね。どうぞこれからもマイペースにご活躍くださいね。
景都: 先生もどうぞお元気で。またぜひ呼んでくださいね。

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