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卒業生インタビューVol.49

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  今回の和光人インタビューは、つい先日までNHKの大河ドラマ『光る君へ』に須麻流役として出演され話題となったダンサー・俳優のDAIKIさんにインタビューをおこないました。 現在は「SOCIAL WORKEERZ」という会社も立ち上げてダンサーとして活動する傍ら、MUSIC BIRD全国コミュニティFM~DAIKIのInclusive Monday!~『教科書では学べないこと』 (生放送)のラジオパーソナリティとしての顔もお持ちのようです。 インタビュアーは和光大学の副学長でもある制野俊弘先生にお願いしました。  (聞き手…和光大学 人間科学科教授 制野俊弘先生) 大河ドラマ「光る君へ」に出演して 聞き手: 4月に会って以来かな。大河ドラマは毎回先生の奥さんが熱心に観ているのだけれど「光る君へ」に出演したことによる反響はあったの? DAIKI: ありましたね。大河は50年以上の歴史がある中で、やっぱり障がいのある俳優が出るっていうのは初めてだったんですよ。今まではそれがタブー視されていて、やっぱり暗黙の難しさがあった中で、今回の監督さんは、それを打破する考えの方だったんです。それでオファーも直々にいただいたので、出演させていただいたことによって、歴史が変わった瞬間っていうのが大きく報じられて、Yahoo!ニュースにも取り上げていただいて色々なところから取材を受けました。「どんな気持ちでやっているんですか?」とも聞かれましたし、「須麻流って、誰?」っていうネット検索も多数あったようです。 聞き手: なるほど。大河では全く異例なことだったんだね。 DAIKI: そうですね。特性がある人たちを主体的な感じの役で出るのは、僕が初めてです。出来ないことは、自ら出来ないと言う 聞き手: 例えば、変な気の遣われ方をしたとか、何か変な配慮されたとか、そういうことはないの? DAIKI: これは、どの舞台でもお仕事いただいた時も大河に限らず撮影現場ではどこでもそうなんですけど、やっぱりこの体で登場した以上、皆さんにはどうしても気を遣われちゃうので…。 聞き手: そうだよね。 DAIKI: そう。先に僕のほうから「ここ」と、「ここ」と、「ここの時は、助けてください」って言っています。例えば、撮影現場で段差がすごいセットがあったりとかした時に、真っ暗だとやっぱり足のサイズ的に転んじゃいや

卒業生インタビュー Vol.48

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  今回の和光人インタビューは、高・大と和光で学ばれた三井透さんと、その息子さんで鶴小・中・高と和光学園に学ばれた三井智哉さんのお二人に親子インタビューをおこないました。 2009年11月に息子の智哉さんが北海道で車の大事故により、頸椎損傷になって車椅子生活を余儀なくされました。その後はリハビリに励み、現在は元気に仕事をしているとのことで、その苦難とこれからについて語っていただきました。 インタビュアーは当時和光中高校長だった両角先生にお願いしました。 (聞き手…当時 和光中学・高等学校校長・現和光学園常務理事 両角憲二先生) 今回の和光人インタビューのいきさつ 聞き手 : ご無沙汰しています。智哉くんとは2020年1月、コロナ禍前の和光中バスケ部新年会で、会って以来ですね。あの時、「智哉、どうしてる?」「会いたいな」って声があがり、私が電話したら、(お父さんの)透さんが送って来てくださった。バスケの連中とも久しぶりだった? 智哉 : ホントにあの時は久しぶりでした(笑) 聞き手 : みんなもとても心配していたから、智哉くんに会えて、すごく喜んだよね。 さて、今回のインタビューですが、引き受けていただきありがとうございます。 和光学園HP内『和光人 卒業生インタビュー』は、学園広報委員会が担当して老若男女色々な卒業生の活躍を紹介していますが、「次回の「和光人」誰が良いか?」という会議の中で、「あのMくんは、その後どうしていますか?」「Mくんって?」「和光中学卒業式の式辞で、両角先生が話されたMくんですよ」「あー、あの三井智哉くんね。その後どうなっているんですか?」「知りたい人、たくさんいるでしょうね」ということになったんですよね。 ということで、今日はよろしくお願いします。 智哉くんが大学卒業するはずの2013年3月、私は和光中学の卒業式で智哉くんのことを話したいと思い、お父さん=透さんに電話して「式辞で智哉くんのことを話して良いでしょうか」を確かめたんですよね。智哉くんのOKももらい、再三の電話で事実を確かめた上で私は式辞原稿を書きました。 卒業式当日、なんと保護者席にお父さん、お母さん、弟の雄哉くんの姿を見つけたときには、本当に緊張しました。HP「校長室から」に、私が退職した2015年まで掲載されていましたが、式辞原稿をプリントしてきました。 ここで2013年3

卒業生インタビュー Vol.47

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今回の和光人インタビューは、中・高と和光学園で学ばれ、その後慶應大学から多摩美術大学に編入して卒業したという異色のアーティスト/ミュージシャンの和田永さんにインタビューしました。和田さんは、バンド「Open Reel Ensemble」を率いて年代物のオープンリール式テープレコーダーを楽器として操って音楽を奏でたり、「エレクトロニコス・ファンタスティコス!」というプロジェクトを立ち上げ、思い出の詰まった古い家電を新たな電磁楽器としてかき鳴らしたりといった音楽活動で知られ、「音と電気の魔法使い」とも呼ばれています。2022年夏のフジロックフェスでも登場して大いに盛り上がったそうです。故ISSEY MIYAKEさんのファッションショーの音楽を担当したり、坂本龍一さんとも交流があり、和田さんの最先端の試みは、多くの音楽家や研究者を驚かせているとも聞きます。  和光中学校の時代には、現在も続くJAMセッション研究部を立ち上げた初代部長でもありました。今回は当時の学年主任だった星野実先生にインタビュアーをお願いしました。 (聞き手…当時 和光中学校学年主任・現在 和光大学・和光中学非常勤講師 星野実先生) 聞き手: 久しぶりに和光中高の校舎に入ってみて、どうでしたか? 和田: 実際にここに来てみると、こう何だか胸にこみ上げてくるものがありますね。やっぱりあの和光の時期っていうのが、今の活動の起爆剤というかエンジンをふかし始めた最初のブーンっていっている時期なのだなぁということを思い出します。うろ覚えの部分もありますけど、教室に入るといろんなディテールを思い出したというか、音楽室を見たときに、ここでジャムってたなみたいな…。なんか結構ドキドキしますね。恥ずかしい感じもあったり、やっぱり思春期だから毎日何かが起こるっていうワクワクドキドキした日々が、うわ~っと一気に蘇ってきました。 和光中学校に入るまで。 聞き手: 最初に和光中に来る前のことも、ちょっと聞きたいんだけど、3歳の頃、バリ島に行って、ガムランとの出会いが衝撃的だったらしいけれど、その影響からなのか、フライパンとか鍋とか調理器具とかそういう叩けるモノをいろいろと自分の部屋に持ち込んで叩いていた…という話を聞いたことがあるんだよね。どんな感じの子どもだったの? 和田: そうですね。まさにそういうことをやっていました。うん

卒業生インタビュー Vol.46

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今回の和光人インタビューは、鶴幼・中・高と和光学園で学ばれ、その後歯科医になられ、葛藤の中で僻地の障がい者医療に従事されている河瀬聡一朗さんにお話をうかがいました。  2019年の台風の水害被災地・宮城県丸森町でのボランティアの様子がテレビでも取り上げられ、専門誌その他で取り上げられることも多く、現在は講演の他に、男性介護者の自殺や事件が多いことを鑑み、男性に対する介護教室も開催されている方です。 インタビュアーは、地元宮城県東松島市にご自宅があり、震災当時は地元の中学校で教員をされていて『命と向きあう教室』(ポプラ社)の著者でもある和光大学副学長の制野俊弘先生にお願いしました。  (聞き手…和光大学副学長 制野俊弘先生) 聞き手: 河瀬さんが和光学園の出身だと聞いて、実は私もびっくりしたのですが、和光はいつからだったのですか? また、子ども時代はどんな感じでしたか? 河瀬: 和光学園は鶴幼からです。よみうりランドに実家があるので、鶴川からスクールバスが出ているということもあって、親が決めたと思います。少なくとも僕の意志ではないですね。 弟もいるのですが、兄弟揃って同じです。 幼稚園当時は、今写真を見ると、だいたい先生と手をつないでいるような子どもで、きっと落ち着きのない目が離せないような感じだったんだろうと思います。 聞き手: 小学校は和光ではなかったんですか?中学校でまた和光に戻ってこられたってことになるんですか? 河瀬: 当時はまだ鶴小がありませんでしたから、地域の公立小学校に通いました。外を見てみると改めて和光の良さが分かりましたね。 色々な子どもがいるじゃないですか。なかなか生活が厳しい家庭もあったり、学区域の中のことも知ることが出来たり。外に出たのも良かったんだろうと思います。 和光中高時代をふりかえる。 恩師・大澤先生との出会い 聞き手: それでは30年くらい前の話になると思うんですけれど、ちょっと当時を思い返していただいて、中高で今でも印象深いことって何かありますか? 河瀬: それなりに僕も色々なところにぶつかって今があると思っています。高校には大澤先生って、ものすごく生徒から恐れられている先生がいたんです。僕も弟もフワフワしている時期があったのですが、わざわざ自宅を訪問して喝を入れてくれたり、「おまえ、俺について来い!」と言って宮城県牡鹿

卒業生インタビューvol.45

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今回の和光人インタビューは、幼~高までの15年間を和光学園で学ばれ、その後、東洋英和女学院大学を経て、現在はトンガ王国大使館で仕事をされている竹下(旧姓:滝沢)ゆめみさんにインタビューしました。 仕事もしながらの子育てということで、2人のお嬢さんのお母さんでもあり、(次女はご主人が自宅で面倒をみていてくださるとのことで)今回は5歳のお嬢さんが同行してくれました。 どのように和光学園在学当時を振り返り、どのようなお考えをお持ちなのでしょう。そのあたりにもご注目ください。 (聞き手…2001年当時高校1-7担任/ 前和光中学・高等学校校長  松山尚寿先生) 聞き手: 久しぶりだね。お子さんも一緒に今日はわざわざ来てもらって嬉しいよ。高校当時の仲間とは、今も会ったりしている? 竹下: お久しぶりです。松山先生とは高校卒業以来ですから、15年ぶりくらいでしょうか? 7組だとアッキーとか馬ちゃん覚えてますか?何人かとはたまに会ったりしてます。叶聡平君は出勤途中に偶然何回か会ったことがあって、和光生も皆頑張ってるんだなと元気をもらったりします。そう考えると色々とつながっていますね。 和光幼稚園・小学校時代は? 聞き手: 早速だけれど、聞くところによると和光は幼稚園からだそうだね。ご両親が和光幼稚園を選ばれたのはどうしてでしょう?何か聞いていらっしゃいますか? 竹下: 実際に和光幼稚園を知ったのは、母が「おもしろい幼稚園がある!」って、どこかから聞きつけて来て、家も世田谷区だったので、そこからですね。 聞き手: 実際に和光幼稚園や小学校はどうだったの? 竹下: 今でも鮮明に憶えているのが、幼稚園では人も乗れる等身大の列車を、小さい体ながら、みんなで材料も運んで、金鎚でトンカントンカン釘を打って作ったことですね。手にマメが出来ても一生懸命に作りあげたのを今も思い出します。 小学校の、担任の先生は1・2年の担任が鎌倉先生、3・4年が國井先生、5・6年が齊藤先生でした。それぞれに強烈な思い出があるのですが、特に思い出深いのが、1・2年の鎌倉先生の時で、当時は『あのね帳』っていっていたと思いますけど、その日の出来事とか先生に伝えたいこととかを書くんですが、先生もキチンとコメントを返してくれるから嬉しくなって、ホントに毎日のように書いていたことを憶えています。 毎日書いていたのは、私ともう

卒業生インタビューvol.44

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今回の和光人インタビューは、中学・高等学校・大学と和光学園で学ばれ、苦労されながらもみずからの道を切り開いてこられたフードコンサルタントの三ツ井創太郎さんにお話をうかがいました。 (聞き手…中学2年・3年時の担任  佐藤英次先生) 最近の様子について 聞き手: 和光の広報担当者から、三ツ井くんがビジネス系の記事やネットニュースにも掲載されていて、いま結構取り上げられているっていう話がありました。このインタビュアーを受けるにあたって三ツ井くんの書籍(「飲食店経営“人の問題”を解決する33の法則(DOBOOK)」)を購入して読んだよ。内容が飲食店経営のことなので、数学教師の自分に分かるかなと思って読み始めたが、本の内容の設定が具体的で的確に書かれていて、図や表などを駆使して納得できる分析が書かれていた。数学の証明と似ていると思った。よく練られているよね、まったく感心したよ。後半は夢中で読んでしまったよ。 三ツ井: わざわざ本を買ってくださったんですね。ありがとうございます。 聞き手: 私の知っている三ツ井くんの仕事はコックさん時代で止まっているのだけれど、またどうして飲食店のコンサルタントになったの? 三ツ井: うちの家はもともと父がアパレル関係の会社を経営していたのですが、私が学生時代にバブル崩壊で倒産してしまった父をずっと横で見ていたので、当時から「いつか経営者の方を助ける仕事をしたい」と思っていました。和光大学卒業後に一旦は飲食関係の会社に就職したのですが、コンサルタントになる夢を諦められず30歳でコンサル会社に中途で就職したのがコンサルタントになったきっかけです。 ただ、いざコンサルタントになってみたら、本当に大変でした。上場会社だったのでライバル社員が1,000人くらい居て、入社して2年間は休みすらなく、月の労働時間が多い月だと450時間位はいってました。当時はもう無我夢中でしたよ。 その上場コンサル会社で5年間働いて独立しました。今では自分の会社を立ち上げて仕事をさせてもらっています。中学からの和光の同級生の前田とも良く会っていて、彼はIT業界ですが、飲食業界もそういうIT分野においては遅れているので「飲食店のDX化を促進しよう!」という思いから、2人でIT関連の会社も一つ立ち上げました。この会社でサブスク型の評価制度システムやDXマーケティングシステムも作

卒業生インタビューvol.43

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今回の和光人インタビューは、中学・高等学校と和光学園で学ばれ、海外からも注目のバンドMAN WITH A MISSIONや若年層を中心に人気のベリーグッドマンなどのアーティストマネージメントを手掛けている南部 喨炳(りょうへい)さんにお話をうかがいました。 在学中はバスケットボール部で中心的な役割を担ってこられた南部さん。その後、高校で始められたというDALLAXというバンド活動は、今年20周年を迎えたそうですが、現在のアーティストマネージメントにも役立っている部分が多いのだそうです。 今後はどんなことをお考えなのでしょうか。どうぞお楽しみに。(聞き手…両角憲二常務理事・前中高校長) MAN WITH A MISSONと共に 聞き手: 今日は。久しぶりですね。南部くんが活躍しているということは聞いていました。慶応を卒業してバンド活動をやっていて、そのバンドが売れ出したっていう感じですか? 南部: 自分のバンドは売れなかったんですけれどね(笑) 現在はMAN WITH A MISSIONやベリーグッドマンをはじめとするアーティストマネージメントをしています。 聞き手: 今回インタビューするにあたって、予備知識がまったくなくて困っていたら、このコーナーの担当者が、南部君とレヴァレント・ムース氏と中川悠介君との対談をプリントしてくれました。 MAN WITH A MISSIONというバンド名の中にMISSIONって単語が入っているけれど「任務」という意味で使っているの? 南部: バンド名を直訳すると『使命をもった男達』って意味ですね。見た目は頭がオオカミ、体は人間なんですよ。オオカミバンドって言われてます。沢山の方々のご協力をいただき、日本ではオリコンチャートで1位を獲得できるバンドになってきました。 また、ライブで言いますと、阪神甲子園球場、日本武道館、各地アリーナ等、万人規模でのコンサートもおこなえるようになってきました。そのMAN WITH A MISSIONとずっと二人三脚でやってます。 聞き手: それはすごいですね。 この雑誌の対談を読むと、国内だけでなく海外ツアーも組んでいるようですね。 南部くんは、お父さんが水産会社勤務で、確かセネガルにいたんだよね?小学校5年までだったっけ? 南部: 先生、僕がセネガルにいたって良く憶えてますね(笑) 聞き手: 私は