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卒業生インタビューvol.41

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今回の和光人インタビューは、和光大学の表現学部芸術学科を卒業された人気のシンガーソングライターの竹澤汀(たけざわ みぎわ)さんにお話をうかがいました。 在学中よりGoosehouseでの活動を始められ、UstreamやYouTubeの配信でも注目を浴びながらの大学生活の裏にはどんな苦労があったのでしょうか。 2017年2月の活動を最後にGoosehouseから正式に脱退され、ソロ活動に専念することになったそうです。今後どのような活動をお考えなのでしょうか、その辺にもご注目ください。 竹澤汀さん、名前の由来 聞き手:  こんにちは。早速ですけれど、汀さんってお名前はとてもめずらしいお名前だと思うのですが、ご自身ではどうお感じなですか? 竹澤 汀: 幼少期は自分の名前が嫌いでした。なかなか読んでもらえないし、かわいくないので…。奈々ちゃんとか○○子ちゃんに憧れていましたね。でも、こういう活動をしていると覚えてもらいやすいので、得してしてる部分が多いなって思います。 聞き手:  シンガーソングライターになろうと思われたのは、いつ頃からなんですか? またきっかけのようなものがあれば教えてください。 竹澤汀: 小学3年生の時に、ジュディマリを聴いて、バンドって楽しそうって思っていました。歌手を目指そうと思ったわけではなかったのですが、母には、何でもいいから歌にまつわる仕事がしたいって言ってました。なぜかはっきり覚えていて、それが小3の時の事でした。 それからも、歌を作ったり歌手を意識した活動を行っていましたが、歌手を目指して一直線という感じではなかったです。 聞き手:  そんな中でなぜ和光大学を選んだのですか?近かったとか?そもそも和光大学を知ってましたか? 竹澤汀: 私の出身は横浜なんです。実は和光は知らなくて。最初は音楽の専門学校に行こうかなって、高校生の頃はそう思っていたんです。じゃあ、ホントに音楽で食べていこうっていう気が私の中にあったかというと、私の場合そうでもなくて。音楽が好きで、それじゃあもうちょっと視野を広げて、芸術という視点で音楽を見た時に、芸術学科のある大学を探してみようと思ったのがきっかけです。 ただ、高校で芸術を専攻していたわけじゃないので、美大は難しいな…と考えていた時に、「東京で変わった人達が集まる大学があるらしいゾ!」って父が教えてくれたのが和光

卒業生インタビューvol.40

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インタビュー40回目となる今回は和光高等学校で学び、『平和ゼミナール』を立ち上げて、さまざまな体験戦争体験者の方の声を聞き、日本国憲法を学び、仲間と共に深く考え合ったことが弁護士を目指すきっかけになったという、新進気鋭の弁護士の白神 優理子(しらが ゆりこ)さんにお話をうかがいました。 『日本国憲法は希望!』と力強く語る白神さん。実は『高校生平和ゼミナール』で活動を始めるまでは、憲法には校則のようなイメージを持っていて、法律が大嫌いだったそうです。180度も考えが変わったのはなぜなのでしょうか。その辺にもご注目ください。 今回のインタビューは、『和光高校平和ゼミナール』のサークルの顧問をされていた松山尚寿先生(現 和光中学・高等学校校長)にお願いしました。 松山尚寿先生(以下、聞き手): 今はだいたいいくつくらいの事件を抱えているの? 白神: 50件くらいは…。でも普通です。 聞き手: 休みはとれているの? 白神: 私が所属している八王子合同事務所の所長は東京過労死弁護団の幹事長をしているくらいなので、所員がブラックな働き方にならないように気をつけてくれています。土曜・日曜に講演会が入った場合は、平日に代休とったりしています。 聞き手: 講演活動も結構しているそうだけれど、どのくらいしているの? 白神: もう弁護士事務所に入って丸3年が経って、この1月で4年目を迎えるのですが、3年間で160回くらいの講演をしました。だいたい講演会は土・日が多いんですが、平均すると月に4~5回くらいです。 《最近の近況やら当時の同級生のことで会話が弾みました》 和光高校という選択! 聞き手: 和光は高校からなんだよね?! またなぜ高校からだったの? 白神: 私は小学校・中学校と公立学校だったのですが、中学までは暗黒の時代でした。私の母は特に教育ママというわけではなかったのですが、詰め込み教育の学習指導要領や学校教育に疑問を感じていて、「授業についていけなくなったらかわいそうだ」ということで、私と弟を別々の塾に通わせてくれました。 私は小4から塾に通い始めたのですが、そこはたまたまA~F組までと成績によってクラス分けされ、1人ひとりの成績によって座る席順まで決められて、廊下に順位が張り出されるという塾でした。幼馴染の友人の子と同じ塾でしたので、手をつないで「一緒のクラスになれたら

和光人インタビューvol.38

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野澤 茉莉花さん 今回は鶴小・中学校と和光学園で学ばれ、その後、医学の方向へ進学して、現在、北里大学病院で放射線治療科の医師をされている野澤茉莉花(まりか)さんにお話を伺いました。鶴小在学中に聞いたホスピスの話がとても印象的だったそうで、それをきっかけに医師を志すことになったそうです。それまでどのような歩みをされてきたのでしょうか。また、放射線科は現代医学の中でも最先端技術ですが、専門に迷いはなかったのでしょうか、ご注目ください。 今回のインタビューは、鶴小の5年・6年当時の担任だった北山ひと美先生(現 和光小学校・和光幼稚園校園長)にお願いしました。 北山ひと美先生(以下、聞き手) : 本当に久しぶりですね。今日はよく来てくださいました。 野澤茉莉花さん (以下、野澤) : 先生、ご無沙汰しています。お元気でしたか。今日はインタビューに呼んでくださってありがとうございます。どうぞよろしくお願いします。 創世記の頃の鶴小を思い起こす 聞き手: 確か茉莉花さんは2期生で、3年生になった時に私がこちら(鶴小)に赴任して来て、最初は隣の1組の担任になったんでしたね。あの当時鶴小はまだ4年生までしか居なくて、集会っていうと3階の5年生6年生の部屋が空いていて、その教室を使っていましたし、遊び場にもなっていましたね。 3年生(の担任)が和田先生、4年生は?? 野澤: 和田先生は初めて担任で持たれたクラスだった…とこないだお聞きしました。4年生では上野先生が担任でした。そして5年~6年と北山先生に担任をしていただいたんでしたね。 聞き手: あの時は、私は3~4年で1組の担任、5~6年で2組の担任と、鶴小の2期生は全員どこかの学年で担任を持たせていただいて、とても思い出深い学年なんですよ。 たまに小学校はそういう形があったんですけれど、(3~4年で1組、5~6年で2組というように担任すること)私が学年を全部横に持たせてもらうというのは、後にも先にもこれが最初で最後だったんです。 あの頃、鶴小は大型動物を次々と飼っていましたね。(今もヤギがいますけれど)ヤギから始まり、牛も飼っていたし、私が3年1組を持った時クラスで「それでは何を飼おう?」と投げかけて、「ヒツジを飼おう!」みたいなことになってヒツジを飼いましたが、5~6年では茉莉花さん達も一緒にお世話してたんでしたっけ? 野澤

卒業生インタビューvol.39

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今回は和光高等学校で学ばれ、デザイナー・モデル・歌手と多才な活動をされている酒井景都(けいと)さんにお話を伺いました。和光学園在学中からオリーブのモデルとして活動をされていた景都さん。慶応大学卒業後に中田ヤスタカさん(Perfumeやきゃりーぱみゅぱみゅのプロデューサー)との音楽ユニットCOLTEMONIKA(コルテモニカ)は先進的な試みだったようですし、ご自分のブランドもお持ちです。どのような歩みが今に生かされているのでしょうか。また、今後はどのような活動を考えているのでしょうか、その辺にもご注目ください。 今回のインタビューは、高3時代の担任だった横山幸三先生にお願いしました。 横山幸三先生(以下、聞き手): 今日はわざわざありがとうございます。3年くらい前に「卒業生の話を聞く会」に来てもらったので、和光には、それ以来ですね。 酒井景都さん (以下、景都): こんにちは、お久しぶりです。先生、お変わりないようですね。今日はよろしくお願いします。 幼少期からの環境とは…。 聞き手: 景都さんのやっていることは、音楽とかデザインとか、絵本・エッセイとか広く手がけているんだなぁって感じるんだけれど、和光高校とはどんなご縁だったか聞かせてもらえますか? 景都: まず、私は生まれは東京なんですけれど、生まれてすぐに家族3人でイギリスへ行って、0歳~2歳はイギリスで育ちました。当時はイギリスの骨董品を日本に輸出する仕事だったんです。その後、両親は日本でイギリスのアンティーク屋さんを営んでいます。私の家はクリスチャンなので、小学校からミッション系の学校に行っていて、小学校は男女共学なんだけれど、中学からは女子校でエスカレーター式という学校に通っていました。そこは校則が厳しくて、三つ折りソックス、長い髪は三つ編みに束ねる、「ごきげんよう」が通常の挨拶で、来客の方がいらっしゃった時には、それこそ「ごきげんよう」の世界だったんですが、モデルの仕事がNGというところまでは私は把握していなかったんです。 ある時、雑誌の読者モデルに応募して通ってしまって、先輩の告げ口から先生に呼び出されました。「何で呼び出されたか分かってるわよね?」という先生の問いかけに、てっきりテストの点が悪かったから? なんて思っていたので「わかってます」と答えたんですが、その時は1ページ掲載された読者モデル

卒業生インタビューvol.36

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今回は中・高と和光学園で学ばれ、現在、NHK記者をされている鈴木有さんにお話を伺いました。お忙しい毎日のようですが、日頃どのようなお仕事をされているのでしょうか。また、これまでどのような歩みをされてきたのでしょう、その辺にもご注目ください。 今回のインタビューは、中学2年~3年当時担任だった榛葉文枝先生にお願いしました。さて、どんなお話しが聞けるでしょうか? 榛葉文枝先生(以下、聞き手): こんにちは。実際に会うのは結婚式以来ですね。今日は初めて息子さんとも会いますね。(息子さんは)今、何歳なの? 鈴木有さん (以下、鈴木): ご無沙汰しています。(息子は)瑛(えい)と言います。3歳です。今日はよろしくお願いします。 聞き手: 就職したのはNHKですね。 今はどんな部署にいるの? 鈴木: 最初に赴任したのはNHKの鹿児島放送局でした。最近、転勤でまたこちらに越してきたんですよ。現在はNHKの報道局科学文化部で文部科学省担当をしています。 こんな会話から始まったインタビューですが、今回は鈴木有さんご本人と(2人目がお腹の中にいるという大事な時期の)奥さまと2歳の息子さんのご家族3人で久しぶりの母校を訪ねていただきました。インタビューの途中、瑛くんと奥さまはちょっと外遊びに出かけました。 自分の個性を模索した中学時代 聞き手: 早速ですが、2000年度中学卒業ということで、1年生の時は寄藤先生が担任、私は(中学校の2年3年と)2年間担任をしたのは憶えているのですが、和光中学校で40年、その後も非常勤として7年も教師をやっていると、だんだんと(学年の)横と縦の関係が分からなくなってくるのよ。 中学3年生の時の名簿を探して持ってきましたが、ホントにそうそうたるメンバーよね?!(笑) 男子は、健太、章吾、宗周、昇吾…。女子はサラ、麻由、吾紗、朝子がいて、私も今にして思うとエネルギー使ったなぁって(笑) 章吾に「健太に嫌われたらこのクラスでは生きていけないよ」って、最初に注意を受けましたよ。(笑) 当時、転入してきた矢澤くんが、今は和光中学校の数学の先生なのよ。 中学を卒業してからの様子を教えてください。 鈴木: 僕の頃は鶴小の1期生が入ってきた年なので、中学5学級、高校7学級と1クラスずつ多かった年なんですよ。 聞き手: そうか、あのクラスだったなぁ~って思ったら、

和光人インタビュー vol.37

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牧野芳雄先生(以下、聞き手): こんばんは。お久しぶりです。 高橋佑太さん (以下、高橋): 先生、お久しぶりです。お会いするのは確か教育実習の時以来ですね。僕の代のこと、覚えてます? 色々な人の名前も出ながら、こんな軽いトーンで夕食のお弁当を食べながら始まった今回のインタビューでしたが、途中、ひょっこりと教育実習の時に担当教員だった体育の細井先生や、中学時代に担任をされた北出先生が顔を出してくださいました。 現在の仕事、SUPER GT参戦のレクサス チームSARDとは? 聞き手: 昔はテニスをがんばっていた…という印象が強くあるけれど、今は実際どんな仕事をしていますか? 高橋: 簡単に言うと、現在はトヨタレーシングチームのマネージメントをしています。スポンサー様(以下、スポンサー)の対応ですね。レースでお金をいただいて、企業の宣伝広告やプロモーションをおこなっています。メディアにも出ますし、雑誌などの媒体にも掲載されます。いわば協賛ですね。 弊社はレース活動がメインですが、アフター(チューニング)パーツの開発・製造・販売も手掛けておりまして、ル・マン24時間耐久レースに日本初で挑戦したのもうちの会社です。最近では軽飛行機も作ったりしています。 1番力を入れているのは、SUPER GTという国内でも人気のカテゴリーへの参戦です。トヨタでは6チームあって、その中の1チームとしてLEXUS TEAM SARDがあります。 聞き手: 僕も昔はTEAM SARD SUPRAなんかは聞いたことがあるね。いったい年間何戦くらいレースがあるのかな? 場所は毎回違うの? 高橋: 年間8戦ですね。場所は、モーターランドsugo・ツインリンクもてぎ・富士スピードウェイで2回、鈴鹿サーキット・岡山国際サーキット・オートポリス・(タイの国際サーキットの)ブリナムユナイテッド・サーキットですね。 聞き手: 相当、お金もかかるんだろうね~。 高橋: 車体だけでも数億円とかの世界なので、スポンサーの協力で成り立ってるんです。国内の自動車メーカーはトヨタ、日産、ホンダの3メーカーですが、トヨタのことでいうと、現在の豊田章男社長がモータースポーツにも力を入れていこうという意気込みが現れていると思います。 華やかなレースの裏で…。 聞き手: 一見、華やかな世界だけれど、苦労してることって

卒業生インタビューvol.35

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今回は小・中と和光学園で学ばれ、現在、東京藝大准教授でもあり、チェンバロ奏者としても多方面で活躍されている大塚直哉さんにお話を伺いました。卒業されて30年近くが経ち、久しぶりの母校の新しい校舎にとても驚いた様子でした。 今回のインタビュアーには、中学時代の担任だった佐藤英次先生にお願いしました。どんなお話しが聞けるでしょうか? 佐藤英次先生(以下、聞き手): どうも~。しばらくです。この間のポプリホールでのチェンバロリサイタル以来かな。 今日は忙しいところ、わざわざ来てくれてありがとうございます。 大塚直哉さん (以下、大塚): この間も来てくださってありがとうございました。今回、インタビューでも呼んでいただいて嬉しいです。 大塚 直哉、和光学園を知る 聞き手: 早速ですが、小学校・中学校と和光でしたが、なんで和光小学校に行くことになったのですか? 大塚: ぼくも、自分はそのまま公立小学校に行くものとばっかり思っていたんです。ある日、母が「今から違うところに(見学に)行く」っていうので、それがはじめですかね。どうやら、丸木先生の著書を読んで、面白そうな学校だなと思ったらしいですね。 聞き手: それが今や藝大の先生だもんなぁ~。ピアノは小さいときからやっていたのですか? 大塚: 3歳半くらいに初めてレッスンに行ったようです。たまたまピアノを教わった先生が作曲科出身だったのですが、練習はキライでも、ピアノを弾くのは好きだったようです。 聞き手: 中学にあがってからも、学年合唱のピアノ伴奏も引き受けていたね。 まず驚きだったのが、朝の会や帰りの会の合唱。2年生の1学期まで1年数ヶ月、毎日のように合唱をしていたのは後にも先にもこのクラスだけでした。直哉君が「(伴奏用の)キーボードがあればいいのに…」って言うから、ボクがそれを買って、毎日直哉君が弾いていたね。いまだに家にあるよ(笑) もう古くて鳴らないかもしれないけど…。どういう経緯で始まったのだろう? 大塚: 忘れました(笑)。歌いたい曲のアンケートを取ってたんですよね。まず普通の合唱曲なんて出て来ないじゃないですか? 流行歌なんかでも苦労しながらもそのキーボードで弾いてたかな。 あの当時は3年間持ち上がりでしたね。今ってクラス編制はどうしてるんですか? 聞き手: 今は1年から2年に上がるときにクラス替えをし