卒業生インタビューvol.35



今回は小・中と和光学園で学ばれ、現在、東京藝大准教授でもあり、チェンバロ奏者としても多方面で活躍されている大塚直哉さんにお話を伺いました。卒業されて30年近くが経ち、久しぶりの母校の新しい校舎にとても驚いた様子でした。 今回のインタビュアーには、中学時代の担任だった佐藤英次先生にお願いしました。どんなお話しが聞けるでしょうか?

佐藤英次先生(以下、聞き手): どうも~。しばらくです。この間のポプリホールでのチェンバロリサイタル以来かな。 今日は忙しいところ、わざわざ来てくれてありがとうございます。
大塚直哉さん (以下、大塚): この間も来てくださってありがとうございました。今回、インタビューでも呼んでいただいて嬉しいです。

大塚 直哉、和光学園を知る

聞き手: 早速ですが、小学校・中学校と和光でしたが、なんで和光小学校に行くことになったのですか?
大塚: ぼくも、自分はそのまま公立小学校に行くものとばっかり思っていたんです。ある日、母が「今から違うところに(見学に)行く」っていうので、それがはじめですかね。どうやら、丸木先生の著書を読んで、面白そうな学校だなと思ったらしいですね。
聞き手: それが今や藝大の先生だもんなぁ~。ピアノは小さいときからやっていたのですか?
大塚: 3歳半くらいに初めてレッスンに行ったようです。たまたまピアノを教わった先生が作曲科出身だったのですが、練習はキライでも、ピアノを弾くのは好きだったようです。
聞き手: 中学にあがってからも、学年合唱のピアノ伴奏も引き受けていたね。
まず驚きだったのが、朝の会や帰りの会の合唱。2年生の1学期まで1年数ヶ月、毎日のように合唱をしていたのは後にも先にもこのクラスだけでした。直哉君が「(伴奏用の)キーボードがあればいいのに…」って言うから、ボクがそれを買って、毎日直哉君が弾いていたね。いまだに家にあるよ(笑) もう古くて鳴らないかもしれないけど…。どういう経緯で始まったのだろう?
大塚:忘れました(笑)。歌いたい曲のアンケートを取ってたんですよね。まず普通の合唱曲なんて出て来ないじゃないですか? 流行歌なんかでも苦労しながらもそのキーボードで弾いてたかな。 あの当時は3年間持ち上がりでしたね。今ってクラス編制はどうしてるんですか?
聞き手: 今は1年から2年に上がるときにクラス替えをしています。どうしても相性が合わなかったり、ソリが合わないって人もいるでしょう? 教員も同じで色々な個性的な教師がいるけれど、相性がバッチリってことはまずないことだからね。直哉君の時は良かったけど、ボクだって辛い時期がありましたよ…。
直哉君のクラスは、合唱発表会で2年では『怪獣のバラード』を歌って、直哉君がピアノ伴奏でバチッと決めてくれて優勝。3年では『ひとつの朝』でまた優勝だったでしょう。いや~、ホントに苦労なかった。ボクは聴いてるだけでした。「どうでしたか?」って聞かれて、「い~よ!」って、それだけでした。あの時は天国だったよ(笑)
中学校の思い出って、他にはどんなことがある??
大塚: なぜか行事よりも和光の授業の方が印象に残っているかな。今自分も教育に携わるようになったから余計に感じるのかもしれませんが、中身を減らしてでも、ここだけは絶対全員に分からせる!っていう先生達の気合いはすごかったな、と思います。佐藤先生の授業で、1年生の最初にプラスとマイナスの数のトランプゲームをしましたよね、たしか。
聞き手: そうだね~。毎年毎年、歳を取れば取るほど、授業準備には時間が掛かります。「どう言えばうまく伝わるか?」っていうのは悩みどころ。「去年はこう言ったけれど、今年はこうかな?」っていうシュミレーションが必要になってきている。藝大だと日本中のトップの人達が集まるからそんなことないんじゃないですか?
大塚: そんなことないですよ~。一人ひとりそれぞれ得意分野も違うし、伝わり方も違う上に、個性がとても強い子が多いのでひとりずつ違うやり方でやることになります。個人対 個人のレッスンが多いので、こちらの思っていることをどう伝えるかということでは毎回悩みどころですね。
今は、藝大で週3日、国立音大で1日教えています。それ以外の時間には、演奏会やCD録音があったり、NHKのFM番組「古楽の楽しみ」の収録があり、またチェンバロに触れてみよう!なんていう初めての人も含んでのワークショップを開いたりしていますね。
チェンバロ界は大御所もいるんですが、下の人が育っていないので、どんどんそういう人を育てていかないといけないなと感じています。

館山、分宿時代の田村屋ソングの復活!!

聞き手:演劇祭では2年で『少年Aの死』、3年の『ブラックコメディ』でも演出をしてたね。直哉君っていうと日常の良きリーダーってイメージが強いけれど、館山(水泳合宿)ではどうだったの? まだ分宿の時代でした。見晴らし・田村屋・新釜・松善でしたね。
大塚: 水泳はあんまり得意じゃなかったので館山はつらかったです(笑)。なんとか鷹(鷹の島から浜まで3㎞)も沖(沖の島から浜まで6㎞)も泳がせてもらいました。人間関係だったり、出し物だったり、集団行動が苦手だったんですかね…(笑)。
佐藤先生、覚えてます?! 当時は僕らのブロックは田村屋に泊まっていたんですが、ブロックソングがグダグダすぎるって佐藤先生に怒られて、それこそ今日のここの部屋で「何とかしろ!レク総務が手本を示せ!」って詰められたんですよね(笑)
聞き手: そんなこともあったかなぁ…。 う~ん、全然憶えてない(笑)
大塚: 当時は、分宿でブロックソングが脈々と受け継がれていたんですが、みんなメロディーがいい加減で、誰も正確には歌えない…。当時は2年生でレク総務になったものですから困っちゃって…。音楽の大金先生に相談したら、それを作った先輩に電話してくれて、電話口で歌ってもらったものを楽譜にしてくれたので、それをブロックのみんなの前で1人で泣きそうになりながら歌ったんですよ。それを可哀想に思ったのかそのあと3年生はじめみんなが協力してくれるようになって助かりました。
3年生の時には、音楽室で眠っていたアコーディオンを使って、アコーディオン部隊を組織して、後夜祭を盛り上げたことも思い出に残っていますね。
聞き手: 良い思い出だね(笑) 今はね、夕日海岸ホテルとシーサイドホテルになってから20年ぐらい経つかな。

秋田学習旅行の変化に目が点…。

大塚: 行く前の予想と違って感動的だったのは秋田でした。事前に秋田の農家に手紙を書くじゃないですか? 見て学ぶような技術系が苦手で、農作業は正直不安だったんです。手紙にもそう書きました。ぼくの入った農家は大石馨さんで、とても優しく接してくれたのを憶えています。ていねいに仕事を教えてくれたし、留学前に絵手紙をいただいたこともあります。秋田は今でも3年なんですか?
聞き手:今は2年生で秋田になって10数年経つけれど、1年生は2年になったら秋田に行けることを楽しみにしているよ。そういうサイクルが伝統になってきています。
年によって秋田に対する思いが違うのは問題なんじゃないか、学校なのだから秋田に対する伝統化する必要があるという感じになっています。
今は和光祭の時に、2年生は、去年(秋田に)行った3年生と来年行く1年生に向けて学年合唱と秋田学習旅行の思いを作文にして読んで、さらに親向けには大教室で、秋田学習旅行で学んだこと・感動したことを伝えるっていうことをしていて、音楽の先生が良く言うのは、合唱というのは伝える相手が明確にいないと心がこもらない…ってこと。
だけど、秋田学習旅行のお別れ感謝の会を通じて、感謝のではお世話になった父さん母さんのために歌うので、秋田に行く前と行った後では、合唱の質がグ~ンと違う。
また当時と劇的に違うのは、宿舎がゆぽぽというわらび座のキレイなホテルのような施設になったこと。上がっても湯冷めしない温泉でご飯も美味しい!ことかな。
色々な意味で、今は事前の段階で、多くの生徒が「秋田には行きたい!」という思いで準備を始めています。
大塚: 僕らが歌っていたのは、『大地讃頌』とか、それこそ『ひとつの朝』みたいな合唱曲でしたけど、今でもそうなんですか?
聞き手: 大地讃頌は農家の要望で毎年歌っていますが、去年は、Greeeenの『遙か』とか『オレンジ』とかそういうポップス系で生徒達の心にもマッチするものを歌っています。

部活のこと

聞き手:部活はなにに入っていたんだっけ?
大塚:音楽部という、リコーダーやギターを使った器楽合奏と、少人数でヴォーカルアンサンブルをやるとてもマイナーな部(笑)にいました。当時新任だった音楽の大金先生がいろいろな楽譜を持ってきてくださって、今思うとずいぶんレベルの高いアンサンブルを経験させてもらいました。卒業してからも、その音楽部で一緒だったメンバーとキャロッツというアカペラのヴォーカルアンサンブルを一時期やっていたりしました。

チェンバロのこと

聞き手:チェンバロっていうと楽器を運んだりするのが大変だよね。割に小さめのホールでやっているイメージがあるけれど。
大塚: 経済的なことはともかく、小さいホールだと本当に細かいニュアンスまで感じてもらえるので、なるべく小さなところでやりたいと思っています。楽器を置いていないところには持ち込みですね。以前、中学で呼んで貰ったときには、自分で大教室に運んだりしました。
聞き手: でまた、なんでチェンバロを?
大塚: 音楽部や大金先生からの影響もあって、将来なにか古い音楽に関わった仕事をしたいなぁと漠然と思うようになりました。ピアノでバッハの作品を弾くのが好きだったり、アンサンブルが好きだったこともあって、チェンバロにしようと思ったんだったと思います、確か(笑)。ただ両親は当然あまり良い顔をせず、うちの場合は高校も大学も公立でないと音楽の専攻は経済的に無理、ということで、都立町田高校、その後東京藝大の楽理科に進学することを選びました。和光高校に行くかどうかはずいぶん悩みましたが、やはりどうしても将来音楽の道に進む選択肢を残しておきたくて、あきらめました。

和光学園で培われたもの…。

聞き手: 和光で培われたものってなんだと思う?
大塚:いろいろある気がしますけれど、たとえば人間を信頼するということでしょうか。「話せば分かる」、というのが和光の先生達のスタンスでしたよね。でも今自分が教える方に回ってみると、(生徒が)納得いかないことに何時間でも付き合って話をしてくれたあの頃の先生たちには本当に頭が下がります。それと、モノの学び方っていうか、結果だけではなく、どうしてその結果にたどり着いたか、その途中を大事にする、ということも和光で教わったことだなという気がしています。
聞き手: そうだよね。それって教員間の信頼関係なのかもしれない。職員室の人間関係が生徒の前に立つと出るのかもしれないなぁって思う。根っこには教師同士の信頼関係があるのかもしれないね。
小学校は担任王国だから、他の先生の関わりが薄いけれど、中学は学年団全体の複数で生徒を見ています。 なんで他の学校はこうはならないのかなぁ…。 公立校は、最近もの凄く締め付けが厳しくて、教員も生徒も悲鳴をあげているでしょう?!
大塚: そうですね。確かに。各地でのセミナーに小中学校の先生も結構受けに来てくれるんですけれど、なかなかあちこちの現場は大変そうですね。

将来の夢を語る!

聞き手: 将来の夢とかありますか?
大塚:自分の場合、幸運にもチェンバロという楽器に思いがけず出会うことが出来たので、同じように次の世代の人たちもチェンバロに気軽に触れられる機会を広げていくような活動をしたいなと思っています。
とはいえ、さしあたっては、近いコンサートや録音の準備をしなきゃとか、学校で教えている子たちがもっと上手くならないかな…という、今日や明日のことで手一杯というのが現状です。音大でのレッスンって魔法にかけるみたいなところもあるんですよね。予想外の言葉がけで一瞬でも普段の実力ではできないことができると、努力する方向がわかって、一気にうまくなるなんてこともありますし、またプロになる厳しさを伝えていくという責任もあるので、全然手が抜けません。でも、不思議なもので、レッスン中に自分の奏法についての発見があることもしばしばで、やはり昔の人が言ったように、教えることは学ぶことなのだな、と思います。
あとは、ヨーロッパに残っている昔のチェンバロやオルガンでCD録音をしていきたい、という夢があります。17世紀や18世紀のオリジナルの楽器が博物館や教会にあることが多いのですが、やはり時とともにどんどん傷んでゆくので、ぜひその音を今のうちに残しておきたいと思っています。日本でもいろいろな場所で演奏の機会を作っていけたらなと思います。
聞き手: 今日は長い時間、ありがとうございました。また、ぜひ演奏も聴かせてくださいね。

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