卒業生インタビューvol.15


今回のインタビューは、日本における数少ないヨーデラーである北川桜さんをご紹介いたします。

(聞き手:和光中学校 田中 伸子 )


自分の好きなジャンルのものを選択して学ぶチャンスが和光にはあった

聞き手:今日のゲストは日本における数少ない女性ヨーデラーの北川桜さんです。親が音楽関係で子どももというケースは少なくないですが、あなたのお父様は北川幸比古さん、児童文学者でいらしたから、音楽とは関係なかったですね。あなたが音楽に目覚めたのは何かきっかけがありますか。あなたが和光中学に入学されたときの、あなたのクラスだけ見ても、作曲の岩代太郎さん、NHK児童合唱団の指揮者加藤洋朗さんがいて、他のクラスにも音楽関係者が多くいる学年だな…という印象ですが、和光での生活が音楽に進むことになる何らかの影響があったのでしょうか。
北川:中学の時は「合唱発表会」があり。学校をあげて合唱をしていたように思います。当時から加藤洋朗くんは指揮をしていて,私は歌う側でした。私は体育が苦手で音楽とか絵を描くとかいうことが自分の中では気に入っていました。和光という学校、とりわけ高校では自分の好きなことを思いっきりやらせてもらえる学校だと思います。色々な選択教科があって私は音楽・音楽理論・声楽というように自分の好きな分野をいろいろ取りました。自分の好きなジャンルのものを選択して学ぶチャンスが和光にはあったことがとても良かったと思っています。しかも和光の先生は生徒のもっている夢をつぶさない。他の学校で学んだ人達の話を聞くと、たとえば将来音楽をやりたいと先生に相談すると、そんなことでは食べて行けないとか夢をつぶされてしまうことがある。でも和光の先生は相談すればいろいろ調べて、相談したことに答えてくださったし、やりたいことを励ましてくださってとてもありがたいと思いました。高校のクラブは真光寺合唱団で、上手だったかどうかは別として朝練・昼練と熱中していました。
聞き手:そういう励ましの中で自分の好きな道をまっすぐに進むことができたと言えるのでしょうか。
北川:しかも、文化祭などでは生徒が発想したことだったら、どんなことでも禁止されることなく自由にやらせて貰えた。お化け屋敷だろうと、コサックダンスなどなんでもやれたことが良い経験になっています。私は卒業してから小学校から高校までいろんな学校をまわって公演してきているのですが、「返事ははっきり」とか「廊下は走るな」といった管理的な標語が貼られていたりして礼儀や上下関係ばかりが大事にされ、和光のような自由な雰囲気は感じられないところが多いです。好きなことを好きなだけやらせてもらえた環境が、今の自分を作ったと思っています。先日、和光小の「歌の会」に呼んでいただいた時、一人ひとりの子どものことを先生方が本当に良く見ていて、さりげない子どもとの接し方の中に深い愛情が伝わってきて涙がとまりませんでした。子どもの時は気がつきませんでしたが、こういう学校を選んで私を入れてくれた親に本当に感謝しています。
聞き手:北川さんは日本でも数少ない女性ヨーデラーです。音楽学校を卒業して二期会会員になられたようですが、ヨーデルとの出会いは何だったのですか。発声は特殊でしょう?ソプラノ歌手としてではなく、ヨーデルを取り入れて歌いたいと思うになられたきっかけをお話し下さい。
北川:「東京ホーフブロイハウス」という、ミュンヘンにある大きなビヤホールの東京店が新宿にあって、ビールも店の調度品などもすべて本場ドイツから取り寄せるなどドイツにこだわった料理と雰囲気の店でした。バブルのころが全盛で、今は残念ながらありませんが。そこはドイツのビアソングで「シュンケル」という、お客さまと腕を組んで左右に揺れたり「ポロネーゼ」というジェンカのように繋がって踊ったりする店なのですが、大学を出るとそこで週何日か歌う仕事をしていました。私はもともと大学を出るときに私がしたことで人が夢を見てくれる、人を楽しませる仕事をしたいと思っていましたから、この仕事は「私の天職だ」と思えるほど楽しいものでした。その楽しさはお客さんと楽しい時間を共有できること。全く知らない者同士でも私の歌を聞いたり一緒に歌ったりしながら「乾杯」「乾杯」といってその時間心を合わせて盛り上がることができることです。
その店には夏のビール祭とかイベントのたびにドイツからヨーデラリン呼ばれるドイツヨーデルを歌う人が来てショウをやるのですが、それを見ていて、このお客様との一体になって盛り上がっていく臨場感に魅せられて、ヨーデルってなんて素敵なんだ、自分もやってみたい。この頃大学を出たばかりでシャンソンもウインナリートもカンツオーネ・ドイツのビールのシーンの歌もどれも譜面上では歌えるけれどどうもしっくりこなかった。どれかに絞ってきちっと歌の背景までも勉強して真髄を極めてみたいと思えたのがヨーデルでした。ちょっと真似してヨーデルをやってみたら結構それらしく歌えて、まわりからも「桜、できるじゃん」と言われたし、自分でもやれるかもしれない、って思えたんです。若かったんですね。それ以来、お金をためてはドイツに行くようになりました。向こうにコーディネイトをしてくださる人がいて、「この先生につきたい」「楽譜が買いたい」「衣装が買いたい」などリクエストをしておくと、私の注文に応じてずっと一緒に行動してくれるのです。夜はコンサートに行ったりして見聞を広めました。十年以上同じ方に関わっていただきヨーデルを勉強しました。
聞き手:つまりホーフブロイハウスの仕事を通してヨーデルの魅力に取りつかれ、勉強するようになっていった訳ですね。でもヨーデルの発声って普通の声の出し方とは違いますよね。相当な訓練がいるものではないのですか。
北川:だれの声帯でも多分ヨーデルができるようになっていると思います。自転車に乗るのと同じで,ある時できるようになれば、あとは音程が正確に取れるように訓練を繰り返すのです。もともとヨーデルというのは牛の鳴き声のまねといわれています。ですから、アルプス地方の牧童たちは牛を呼び集めたり、魔物から身を守るためにああいう声を発しているのです。若かったので「人間のやることなんだから自分にもできないことはない」と思ってしまったのですね。私は体育はできないからオリンピック選手にはなれないけれど、音楽の世界では頑張れるかもしれないと思えたのです。私の望みを両親もふくめて多くの方が応援してくれました。人と人をつないでくださったり、レッスンしてくださったり。やりたいという私の思いを支えてくださった多くの方々がいて今の自分がある。本当にあり難いことです。
聞き手:どれくらい海外では勉強されたのですが。
北川:1992年から2004年ぐらいまでは年に3回ぐらいづつ出かけて行きました。休みのとれかたによって長期のこともあるし、短いこともあります。
聞き手:ヨーデルを歌うことを職業にしようと思うになったのはどうしてですか。
北川:結果としてヨーデルを中心にやるようになったのであって、ヨーデルのみをやろうと思っていた訳ではありません。オペラをやったり東宝ミュージカルに出たり録音の仕事やオペレッタをやったりしながらヨーデルを習っているうちに、『あの子はヨーデルをやっているらしい』という事である店のバンドマスターから声がかかりました。バンドマスターというのは単なる歌い手ではなくてそのステージのすべてを取り仕切る方で、それ以来その店にずっと出演するようになりました。その結果その店以外からも、そして以前公演で廻った学校などからも「ヨーデルをやってほしい」と声がかかるようになったのです。ですからヨーデルだけに的を絞っているのではなく、ヨーデルで声がかかることが多くなっているということです。
聞き手:それでは日常的にどんな活動をしていらっしゃるのですか。
北川:ドイツ年のときにはあちこちのホテルやデパートなどのイベントに呼ばれて演奏しました。一番多いのはブラスをたてて全国を廻る仕事ですね。トランペット・トロンボーン・チューバ・アコーディオンなどのキーボード、アルプホルンなど3人から8人の編成です。これは見て楽しくどちらかというと参加型のアルプス音楽コンサートで結構人気があるショーです。歌ったり演奏したり、めずらしいアルプホルンも吹いてみたり観客に吹いてもらったりと次々と目先のかわったものを客席にみせていき、最後は全員参加のアルプスのダンスで盛り上げるという趣向です。教育委員会主催のファミリーコンサートや小・中・高校、ホテルやデパートのイベント、企業の〇〇周年パティーの盛り上げイベントやビアホールなどで演奏しています。このスタイルのものは今後も続けていきますが、これからは北川個人のヨーデルとカウベルのみのじっくり聴いていただくアルプスヨーデルの本物をお届けしたい。素敵な和声のもの。オリジナリティーのあるアレンジをして歌詞も日本語にして「あの曲いいねえ」と口ずさみたくなるような音楽をおとどけしていきたいのです。
聞き手:あなたの公演を見させていただいたときヨーデルも素敵でしたが、カウベルをひとりで次々ひろって演奏する姿も優雅でしかも早業に魅了されました。
北川:ドイツではヨーデルをやる人が歌の合間にカウベルの演奏をして見せるのがスタイルになっていて、私も取り入れてやっています。もともとは牛やヤギの首につけているものですが、私が使っているものは音色をそろえて演奏用につくられたものです。

和光は先生たちがとても生徒を大事にする学校


聞き手:ところで音楽の世界にかぎらず、芸術の世界で生きていくというのは大変な事と思いますが、どういう面が一番苦労されるところですか。
北川:自己管理ですね。はじめにもいいましたが、私がやったことで人が夢をみてくれるようなことを職業にしたいとおもっていました。それがたまたま今はヨーデルですが、バルーンやアメで動物をつくったりもします。私が何かすることで見ている人が現実から一歩離れてホッとしたり楽しかったり夢がみられたらいいな、と思っているからです。それがたまたま今はヨーデルなのですが、人が喜んでくれればなんでもします。しかし大変なのは人間ですからいつも体調も気力も十分というわけではありません。それでも芸人は親の死に目にも会えないと昔からいいますが、ちょっとでもつらいとか悲しい,悩んでいる姿を人に見せられない。そして自由業の手品師・役者もフリーの音楽家もみな同じでしょうがこれからどうやっていこうかと考える。最後は「泥水をすする覚悟」でやっていますから不安がよぎることもあります。忙しいときは連続8ヶ月毎日が本番ということもありますし、ぱったりと仕事が来ない月もある。そういう時は自己研鑽のチャンスととらえて練習に励むようにしています。そして日々食べて行くことかな。
聞き手:では逆にこういうことがあるから続けていかれるということは何ですか?
北川:お客様が喜んでくださる姿でしょうか。やってくださいというお客がひとりでもあるあいだは続けていきたいと思っています。どんなに困難におもえても頭を使えば必ず道は開けると信じています。
聞き手:では最後に和光生にぜひ伝えたいをお聞かせください。
北川:最初に言いましたが、和光は先生たちがとても生徒を大事にする学校です。一人一人に先生がむきあってくれる。行事も沢山あって楽しい学校生活でした。和光ではながいものにまかれない、とか自由・平等の考え方はたたきこまれました。他の学校では先輩後輩の縦の関係があり、言いたいことも言えないようですが、和光では自然のうちに上級生が下級生のめんどうをみるということがあった。そういう良さのいっぱいある学校です。私はリーダーにもならず水泳も嫌いだったし、担任には理由もなく反発したり、わざと間違った答案を書いたりしてかなり変った子だったと思います。服装が自由であることをいいことに「大草原の小さな家」にでてくるような格好をしたり、そして本ばかり読んでいました。でも授業はどれも楽しかったし行事も苦手なものもあったけれど自分なりに楽しんでいました。問題が起こったら仲間とともに考えてゆく。個性をつぶされることなく今があることに感謝しています。和光は自分のよさが見つけられる最高の学校だと思います。
聞き手:和光のふところの深さでしょうか。今日はどうもありがとうございました。桜さんには追っかけのグループもあるんですよね。何度みても楽しいからでしょう。今後もコンサートが盛況だといいですね。ところで、ヨーデルのルーツについて、お聞かせいただけますか?
北川:もともとアルプスのヨーデルとアメリカのカントリーヨーデル、それとハワイアンもヨーデルに分類する人もいます。カントリーヨーデルはスイスの移民がアメリカに移民して自分たちの伝統音楽をいかしたものといわれています。フランスの移民がアメリカに渡ってできたのがカントリーの中のケイジャンというジャンバラヤなんかがそうですね。アルプスのヨーデルにはドイツ・スイス・オーストリアのものがあります。もともとは牛の鳴き声をまねて山の魔物から自分を守ろうとして「モウオー」と天にむかってさけんでいたのがヨーデルの始まりと言われています。でもこの3つの国では文化の流れによって大きく違っています。
ドイツのヨーデルはCDで聴くよりもビアホールで観客の要求に応じてテンポをどんどん早くして会場でみんなで盛り上がるというタイプが多いすね。オーストリアのものは各町やタール(谷)ごとに郷土を称えるものが多く,スイスのものは1910年から自分たちの国の文化振興策として3年に1回、地域ごとに特色ある民族衣装をきてヨーデル・旗振り・アルプホルンの腕を競い合うコンテスト(アマチュアのみ参加できる)を催して育てている、と言う感じです。ですから自分たちが楽しむというよりもヨーデルリートで観客に聴かせるというものです。

(了)


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