卒業生インタビューvol.24
富岡さんは和光学園創立77周年記念式典の時のオープニングをピアノ演奏で飾っていただいたこともあります。鶴幼~中学まで卒業されたので、各校にいろいろな思い入れをお持ちだと思いますが、今回は鶴小に焦点化してお話しを伺いたいと思います。
聞き手:和光鶴川小学校 和田 仁 教諭
聞き手:久しぶりですね。和光学園の創立77周年記念のピアノ演奏以来でしょうか。
鶴小は創立20周年を迎えました。鶴小の開校と同時に1年生として入学した紀香さんは、鶴小の歴史をつくってきた第1期生として特に思い入れがあることでしょう。大人になった今、当時を振り返って話ができることがとてもうれしいです。まずは、最近はどんな活動をされているのです。
富岡:卒業後14年になります。和田先生もちょうど今の私の歳くらいだっただろうと思います。現在は、桐朋音楽大学を卒業後、留学も経て、4月から芸大の別科コースでピアノのレッスンを受けつつ学校に通いながら、演奏活動もおこなっています。
聞き手: 音楽をはじめるきっかけは何だったのでしょうか。
富岡:私の場合は、母が自宅で教えていたり、エレクトーンが家にあったりもしたので、割りと音楽は身近なものでした。はじめは遊んで弾いていたと思いますが、2歳か3歳からヤマハの子どものコースに通うようになり、4歳くらいからは桐朋学園のこどものための音楽教室で学び始めました。桐朋学園の子どものための音楽教室は全国各地にあって、子どもの音楽教育では有名なところです。
聞き手: 遊びからはじめてその楽しさを見つけていったのですね。小さい頃から、音楽に一生懸命だったようですが、ピアノを弾いていて、鶴小で学んだことが生きているということはありますか?
富岡:幼稚園の頃から週2日、同じくらいの年頃の子ども達と一緒に音楽教室でソルフェージュとピアノの実技レッスンに通っていましたが、皆さん、幼稚園、小学校の低学年くらいから練習練習漬けの毎日で、中には外でお友達と遊ぶのは週1回1時間だけなんていう子もいました。
他の学校の子なのですが、高学年になるとコンクールや試験準備のために1ヶ月近く学校をお休みしたり、学校行事や修学旅行には一切行かないという子もいました。その中でも私は明らかに他の人と違って、運動会や合宿、その他盛りだくさんの和光の行事を楽しみ、リーダーや班長をやったりいろんなことにその都度一生懸命になっていました。私が小さい頃に習っていたピアノの先生も理解のある方で、「心が柔軟な子どものうちにいろいろな経験をしなさい」と言って下さっていたのもありますが、ピアノの練習そっちのけで放課後は遅くまで友達と雑木林で遊んだり、ザリガニ採りに行ったり、当時みんなで育てていた蚕の餌の桑の葉を採りに行ったり。
音楽教室は色白の子ばかり。夏は私だけが日焼けして真っ黒でした。よく紀香ちゃんは変わっている…なんて言われていたようです。「あの頃もっと真面目にピアノの練習をしておけば良かった!」と思う反面、ピアノばかりでは無く、あの頃にしかできない色々な経験をしたことはとても良かったと思います。私にとって、鶴小でやった様々な行事や学習が自分の表現にすごく生きている気がします。
聞き手:一度、紀香さんの演奏を聴きに行った時、こんなピアノの表現があるのかと驚いたことを覚えています。自分の内側で感じていることがそのまま音になっているというか、きれいに弾きこなすという感じではなく、自分の表現を貫いているというか…その躍動感や表現に圧倒されました。
富岡:留学してみてわかったことでもあるのですが、ヨーロッパと日本では、学び方や物事への働きかけ方も根本的に違うんだと感じました。ヨーロッパでは、クラシック音楽が生活の中で当たり前のように普通に流れていて、演奏会も安価で気軽に聴けますし、クラシック音楽が形式ばったものではなく、自由に普通の人の生活の土壌に染み込んでいるのです。
日本の場合は師弟関係や上下関係が重要視される傾向にあり、敷居も高く難しい印象があります。そして自分の表現よりも「こう弾かなければならない」という決まりのようなもの重要視される傾向もあるのかもしれません。ウィーンで私が師事した先生は『こういう表現も、あぁいう表現もあるけれど、さぁ君はどうする?』と尋ねてくれ「これはこうしなくてはならない!」と言うのでは無く、生徒自身に考える機会をくれるのです。『私は調教師では無く、プロフェッサーだ。プロの演奏家を目指す君たちの表現の方法の手助けをするのがプロフェッサーの役目だ』とおっしゃっていたのが印象的でした。
聞き手:その曲を作った人やその背景を大切にしながらも、その曲から自分自身が感じるものを紀香さんは音にしていくわけですね。自分で感じることを大切にしているというのはすごく理解できます。
考えてみると、鶴小の第1期生は1年生だけでスタートしました。なので勉強も生活も行事もすべて自分たちで一からつくり上げていきました。“自分で作る”、そういうことも今の紀香さんにつながっているのかなと想像します。子ども主体の学校づくりのベースをつくっていく大変さもたくさんあったと思います。鶴小での生活の中で思い出深いことはありますか。
富岡:私たちの場合は、1年生~6年生までいつも新しい歴史をつくる、いつもゼロからのスタートで、私たちのやったことのあとに鶴小の道ができる、そんな他では体験できないことを色々やらせてもらい、先生たちも親たちも私たちも様々なことにチャレンジしました。運動会に合宿、総合学習に沖縄学習旅行…全ての取り組みが初めてでしたが、その都度みんなで一生懸命に話し合って、つくっていきました。その時は大変でしたが、二十歳を過ぎて自分の置かれていた環境がいかに幸せだったのか大いに実感させられました。他では絶対にできないような経験を小学生の時からさせてもらっていたのですから。
例えば、ここに1冊の卒業アルバムが置かれていますが、この表紙を見た瞬間にあのことだな…って今も思い浮かびます(笑)
聞き手:鶴小の運動会と言えばグランプリレース。4年・5年・6年がたてわりで競技をしましたね。三人四脚、ムカデ、キャタピラなどさまざまな種目が複合した競技ですが、あの時紀香さんがやった“丸太引き”は今でもはっきり覚えています。
束になった3本の丸太を3人で引いていくのですが、ちょうど、紀香さんはからだの小さい障がいをもった男の子と一緒で、女の子なのにまん中を引いて…そして男の子3人で引く丸太より、紀香1人で引いた丸太のほうが速かったという…。(笑)
富岡:運動会後に職員室前にはられている写真を見る度に恥ずかしかった思い出があります。「もう、お嫁に行けないかも…」って、本当に恥ずかしかったし、当時、ちょっと心配しました。でも生徒やお母さん方には好評で、運動会が終わった後に「あなたは女性の鏡です!」なんていうファンレターをとあるお母さんから頂いたりして…。(笑)
今考えると12歳のお年頃の女の子が一人で丸太を引くなんて、良くできたなぁとも思いますが、そんなの気にせずチームのために頑張っちゃおう!という明るい雰囲気が全体にあったのだと思います。
聞き手:5年、6年と丸太引きだったら、紀香に任せた!ってみんなが期待する。そして一生懸命それに応える。みんなの中で輝く瞬間のひとつだったように思います。
富岡:それなのに、私の卒業した翌年からその丸太引きがなくなっちゃったんです…。
聞き手:それはね、あまりに力技競技が多すぎたので種目が見直されたんです。中1になった紀香さんが「なんでなくなったの~!」と声をあげていたのを覚えています。鶴小の運動会には、みんなで作戦を考える時間や、人と協力したり、合意を作ったり、自分たちの運動会は自分たちで作つく伝統がありますね。今のもちろん変わりません。
さて、紀香さんは鶴幼から和光学園だったわけですが、通わせてくれたご両親のことはどう思いますか?また、なぜ和光学園だったのでしょう。
富岡:父も母も高校から和光でした。父の妹(私から見れば叔母)も和光でした。
両親は中学までは公立に通っていましたが、ちょっと枠からはみ出しただけで不良みたいに言われたり、思春期に学校や先生に対して疑問を持つことが多かった様子です。高校から和光学園に通うようになって、制服も校則も無く、先生と生徒もとても仲が良く楽しい雰囲気で、良い仲間もたくさん出来、自分達に子どもができたら和光で教育を受けさせようと決めていたようです。ちなみに私が中学の時にお世話になった松本先生は、両親の担任であり仲人でもありました。
私は今までの人生で、制服を着たことも無ければ、給食を食べたこともないし、校則の厳しさも知らないので、両親が経験したような思いは良く解らないけれど、和光学園に入れてくれたことは良かったと思います。
聞き手:自分らしくいられる、自分の考え方を持つように鶴小を選んだってことかなぁ。そんな中で逆に悩んだことってなかったですか。
富岡:高学年になって、女の子同士、言いたいことがあるのに相手に言えなかったり、伝わらなかったりした時はさすがに悩みましたね。
聞き手:女の子どうしの関係では、新米教師ではじめての高学年を担任した僕もすごく悩みました。気を使ったり、言えなかったり、自分の中で納得できなかったり…。高学年になると友だち同士の関係で悩むことも増えますね。どうわかり合っていけばいいのか…。そんな時に力になってくれたのは、やっぱりお母さん達でした。先生はどう考えるのか、そこをていねいに聞いてくれた上で、率直に思ったことを話してくれました。そして、お家での様子を話してくれたり、自分の時のことに置き換えて考えてくれたり…。「問題があって当たり前!」という姿勢で、常に子どもをまん中にすべての親が自分の子どものことのように考えて、寄り添ってもらっている感じがありました。教師としてすごく心強かったし、勉強になったのを今も覚えています。実に懐が深かったですね。
いいことも、そうでないことも、全てを受け止めて、仲間とともに自分らしく前にすすむ。そういう機会が鶴小にはたくさんあるように思います。 例えば総合学習で“本物の豆腐づくり”をみんなで考えたとき、白い豆腐、四角い豆腐、添加物の少ない豆腐…勉強していくといろんな考えがみんなの中から出てきます。でも紀香さんはそれでは納得できなかった。ある日、職人さんから話を聞いてきて、すごく納得して帰ってきましたね。「本物の豆腐とは…“手づくりしてこそ本物の豆腐”」って。自分でつくってみて、その難しさや大変さがわかり、豆腐がどのようにしてつくられているのかが見えることが大切だという自分なりの本物の豆腐にたどり着いていたことを思い出します。自分が納得するまで追求するというところが当時からあったよね。
富岡:音楽でもそうです。(笑) 他の人に言われた通りにも一応弾いてみるけれど、自分が納得しないと絶対に次に進めないんです。
留学している時に食べ物に困ったことがあったんですよ。日本食が恋しくてね。そんな時には、自分で豆腐を作ったり、うどんを打ったりもしましたよ。「ピアノの勉強にウィーンに来て、なんでウィーンで豆腐やうどんをつくっているんだろう」って思ったりもしましたが。(笑)
よく他の環境で育った人から、どうしたらお前みたいになれるんだ…って不思議がられますが、それもこれも原点やものの考え方は和光生時代の経験に裏打ちされた自信なんですよね。自分の力で何とかなる!できる!みたいなね。(笑)
また、家畜を飼おうという授業では、ヤギを飼いたい~っていう発想から、どこからかヤギをもらって来て飼ったことがありました。元気すぎて脱走したり、突進してきたりする子でしたが良い思い出です。
聞き手:ホントは、ヤギの乳しぼりをしてそれを売ろう!って計画もあったのですが、失敗。でも秋まつりでそのヤギと記念写真を撮ろうというお店を出してもうけましたね。(笑) 発想が自由でした。
富岡:まだまだありますよ~。夏の林間合宿のキャンプでは、学校で材料は用意してくれる代わりに、自分達ですべての食事をつくらなくっちゃいけないんですが、すごく試行錯誤しました。そんな活動も楽しかったです。キャンプの出し物のヒゲダンスは、みんな恥ずかしがっちゃったけど…。
他には、鶴小の民舞で私は『御神楽(みかぐら)』が好きでした。他の学年の人は良く『エイサー』って声を聞きますが、『御神楽』では1番~8番まで踊ったんですよ。まずそんな小学生はめったにいないと思います。
聞き手:みんなの『御神楽』は腰がすごく低くて、そこから手を高く上げて回す扇がとてもきれいでした。休み時間も踊っていたし、自主練習もしていましたね。踊りは1人1人なのですが、みんなの息づかいを感じながら踊る感覚、みんなで踊ることをまさに楽しんでいるって感じでした。
みんなで一体感を感じられた時には、ゾクゾクするような感覚がありました。
聞き手:すごくたくさんのことを覚えていますね。紀香さんは自分でひとつひとつのことにまっすぐ向かいます。和光から離れて今も、まっすぐ自分の進む道を選び、自分の足でしっかり歩こうとしているのを感じます。今後はどんな活動をしていきたいですか。
富岡:今年の9月には東京でソロデビューリサイタルを計画しています。
今後はピアノを教えていくことのベースを作っていきたい…と考えています。 留学して感じたヨーロッパ的な子どもの可能性や個性を伸ばしつつ、自ら選ばせるような指導をしていきたいと考えています。
読み書きや計算などの知識量はもちろん必要ですが、学ぶこととは本当は自分の生活を豊かにするためのものです。知識や教養は自分が興味を持った事柄を深く、じっくり突き進めていけば自然と身についてくるものです。幼少期に色々な体験をし、物を考え、感じた経験は必ず将来に役に立つと思います。 和光で培った学ぶ事の意味を、ともに考えていけるようなピアニスト、ピアノの先生になりたいと思います。
聞き手:最後に、和光生になにかメッセージをお願いします。
富岡:和光ではすぐに効果は現れなくても、必ず自分の中に生きてくるものがあります。どうぞ自信を持って進めてください。同じ環境で育った者同士通じ合える瞬間が沢山ありますよ。私はいまだに当時の友人と連絡を取り合って仲良くしています。
私は常々、和光みたいな学校がノーマルスタンダードにならないものかと思っています。私の感性は和光学園で培われたものです。感覚が柔らかいうちにいろいろな本物にたくさん出会ってください。
聞き手:なかなか話は尽きませんが、今度みんなで飲みましょうね。これからもどうぞご活躍ください。
(了)